壺齋散人の 映画探検
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ウィリアム・ワイラー「コレクター」:ストーカーによる婦女監禁



ウィリアム・ワイラーの1965年の映画「コレクター(The Collector)」は、ストーカーによる婦女監禁をテーマにした作品である。ストーカーという犯罪類型は日本ではそんなに古くからあるものではないが、婦女監禁は結構古くから存在したと思われる。その二つが一対一で結びつくというのは、日本ではつい最近のことだろう。一方的に好きになってしまった女性を監禁して、その女性を相手に日常的に性的な欲望を発散していた例は、近年になってやっと話題になるようになった。だが、英米圏ではかなり以前からあったのだろう。この映画は、異常性格のストーカーが一人の女性を人里離れた場所に監禁し、彼女を相手にゆがんだ欲望を発散させるさまを、執拗なタッチで描く。見ていて薄気味が悪くなる作品だ。

ワイラーはこの映画の舞台をイギリスのロンドン郊外にとっている。一番近い隣家から800メートルも離れた寂しい土地に一件の古家があって、それを一人の青年が買う。目的は、かねてから自分が密かにつきまとってきた女性を誘拐してここに監禁し、自分のゆがんだ欲望を発散させることだ。この男は両親もなく、貧しい中で孤独な人生を生きてきたが、ある日突然宝くじを当てて億万長者になる。男は迷い無くその金を自分がかねてから思いを寄せてきた女性を監禁する目的に使うのである。

通常の男なら、自分の好きになった女性に受け入れてもらうようにあらゆる努力をするものだ。容貌に自信が無ければそれに代わる力を身につけようとか、遊びに誘う金がなければ働いて金を稼ごうとか、色々努力して女性に自分を認めてもらおうとするのが筋だ。ところがこの男は、女を誘拐監禁して、無抵抗の状態に陥れ、その無抵抗の相手に対して、自分のゆがんだ欲望をぶつける。だがこの男の欲望は多少変わっていて、女性をストレートに強姦するわけではない。精神的に追い詰めて行くのだ。つまり肉体的な強姦ではなく、精神的な強姦を楽しむのである。そこがストーカーのスト-カーらしい所以で、多くの場合、ストーカーというのは、相手を肉体的に支配するよりも、精神的に支配することを目指すということらしい。

この男には変わった趣味がある。蝶のコレクションだ。世界中の蝶を、卵の段階から収集して、それを孵化させ、立派な姿になったところを、殺してサンプルにする。こういうコレクションはなかなか面白くて、やみつきになるそうだ。小生の知人にも昆虫のコレクションが好きで、いい年になっても蝶やカブトムシを追いかけまわしている奴がいるが、こういう連中の精神状態には一種独特なところがあり、見ていて気味が悪くなることもある。そうした普通の人間にとっての気味の悪さといった感覚を、この映画は鮮やかに描き出している。

この男はどうも、死んだ蝶を愛するような気持ちで、女性を愛しているようなのだ。ただひとつ違うのは、死んだ蝶はその華麗な姿を披露してくれるだけでも自分を満足させてくれるが、生きている女性は自分を愛してくれなければたいした意味が無い。この男の目的はその女に自分を愛させることなのだ。

だが逮捕監禁された女性が、自分の監禁者を愛せるはずがない。しかし男にはそれが理解できない。彼女が自分を愛せないのは彼女に努力が欠けているからだ。そう思ってしまう。時たま彼女から男を誘惑する行為を仕掛けるが、男はそれに乗らない。彼女がそうするのは自分を油断させて逃げるためであって、自分を愛するからではない。自分が彼女に求めているのは精神的な愛であって、肉体的な快楽ではない。単に肉体的な快楽なら、金を払えばいくらでも買うことができる。精神的な愛をともなわないまま自分の身体を許そうとするのは Street women と同じだ。そういって男は女を拒絶するのだ。

こんな具合だから、この映画の中の男と女の関係は完全にサイケデリックな世界だ。それを性的倒錯というのか、あるいは異常性格というのか。とにかくストーカーとは性格にゆがみのある人間のことだというメッセージがこの映画からは強く伝わってくる。

この映画が不気味さを感じさせるのは、一対一の力関係の中では男が圧倒的に有利な状況にあり、女性は男の言いなりにならざるを得ないということだ。こうした絶対的な非対称関係にあっては、強い方が弱い方を相手にやりたい放題のことをする。そうした力関係は、この映画の中の男女の間ばかりでなく、数多くの場面でも認められるものだ。学校における弱い者いじめはそのもっとも卑小な例であろうし、イスラエルにおけるユダヤ人によるパレスティナ人へのホロコースト的な攻撃はもっともスケールが大きなものだ。映画の中の男が女性に向かって、 I can do what I like と言う場面が出てくるが、これは非対称関係にあって強者が弱者を相手にいつも言う言葉だ。

ユダヤ人であるワイラーは、どのような気持ちでこのような映画を作ったのか。それはそれで興味深いところだが、そこまで考えるとこの映画の作品論を越えてしまうので、深入りすることはしない。

ともあれ、この映画では女性を死なせてしまったストーカーは、失敗の原因を彼女がインテリ過ぎたということに求め、今後失敗せずに異性を支配するためには、もっと知的レベルの低い普通の女を標的にしたほうがよいと気づく。この男は、一人目の犠牲者をひっそりと始末した後、二人目の女性を獲得すべくハンティングに向かう。その薄気味の悪いつきまといを映し出すことで映画は終わるのである。そこにも何ともいえない不気味さを感じさせられる。



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