壺齋散人の 映画探検
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ドン・シーゲル「ダーティハリー」:クリント・イーストウッドの破天荒な活躍



映画「ダーティハリー(Dirty Harry)」は、クリント・イーストウッドを大スターにした作品である。イーストウッドといえば、テレビ西部劇「ローハイド」のロディ役として、我々団塊の世代には馴染みの俳優だったが、映画俳優としては芽が出ず、イタリアに渡っていわゆるマカロニウェスタンなどのB級映画ばかりに出ていたが、「ダーティハリー」の破天荒な刑事役を通じて、一躍国際的な人気を博した。

この映画は、変質者のシリアルキラーをサンフランシスコ警察の刑事が追い詰めるというもので、所謂刑事アクションものの範疇に入るものだが、面白いのは、警察を正義の味方としてかっこよく描くのではなく、批判的な視点から描いていることだ。刑事のハリーは警察組織の秩序などお構い無しの一匹オオカミ的な存在として描かれているし、彼を使っている警察組織も自己保身的な腐敗した存在として描かれている。そこが従来の刑事者とは大きな違いで、刑事アクションものでありながら、アメリカン・ニューシネマの傑作としてもカウントされるようになった所以だ。

アクション映画としては非常によく出来ている。罪のない人間を無差別に殺し、あげくに少女を強姦した上でマンホールの中に閉じ込め窒息死させるというシリアルキラーの変質者に、イーストウッド演じるシスコ警察の刑事が立ち向かってゆく。そしてついに相手を追い詰め、逮捕する。この辺のところは、手に汗をにぎるようなアクションシーンの連続で、見ていて実に面白い。しかも単なるアクションばかりでなく、犯人を一種の知能犯に仕立てることで、刑事のイーストウッドにも痛い目にあわせる。彼は犯人にボコボコにされながら、相手を追い詰めてゆくのである。

刑事にとって意外だったのは、せっかく犯人を捕まえたにかかわらず、証拠不十分で釈放されてしまうことだ。この際に刑事は、検事や判事から犯人にも人権があると諭されるのだが、その言葉を聞いた彼は、じゃあ被害者の人権はどうなるんだと反論する。彼は犯人を追い詰めた際にも、犯人の口から「俺にも権利がある」という主張を聞かされて頭にきていたのだ。それと同じことを司法組織の連中から聞かされ、この国の正義はどうなっているのかと、深刻な気持に陥ったわけである。

釈放された犯人は再び連続殺人に取り掛かる。手口は今までと同じで、警察へ挑戦状を叩きつけながら、スクールバスをハイジャックし、子供を人質にとる。イーストウッドは再び犯人との折衝役を上司から命令されるが、これまでのことがあるので、上司の命令には従わない。そのかわりに自分の一存で犯人との対決に踏み切るのだ。

犯人が人質を乗せて走っている車を追跡したイーストウッドは、ついに犯人を追い詰める。追い詰められた犯人はたまたま川で釣りをしていた少年を人質にとって、イーストウッドの武装を解除させようとする。この映画のハイライトだ。息の詰まるようなやりとりがあり、最後にはイーストウッドが犯人の肩を打ち抜く。その上で追い詰められてヤケになっている犯人を挑発し、その上で犯人を射殺する。イーストウッドは自分自身が犯人から散々コケにされていたこともあり、あっさりと逮捕するのではなく、犯人に十二分な意趣返しをしたかったのである。

こんなわけでこの映画は、一方では組織をはみ出した刑事の生き方をかっこよく描くとともに、一方では警察組織の自己保身的な事なかれ主義を皮肉っている。それにシリアルキラーの異常な犯罪を絡ませながら、実に密度の高いアクション映画となっている。

なお、ダーティハリーとは、このはぐれものの刑事のあだ名ということになっているが、それはいつも汚れ仕事ばかり押し付けられているからだとのアナウンスが入る。警察組織は、この刑事に汚れ仕事をさせて、その後始末には責任を負わない、そんなイメージが伝わってくる。



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