壺齋散人の 映画探検
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ジョージ・ロイ・ヒル「明日に向って撃て」:強盗の異議申し立て



1969年のアメリカ映画「明日に向って撃て(Butch Cassidy and the Sundance Kid)」は、いわゆるアメリカン・ニューシネマの傑作と言われているが、これが何故ニューシネマに分類されたのか、いま一つわからないところがある。ニューシネマというのは、アメリカの伝統的な価値観への異議申し立てを最大のコンセプトとしていたと思うのだが、この映画にはそうした要素は希薄、というよりほとんどない。逆に、西部劇が描いていた古き良きアメリカへのノスタルジーのようなものがあふれている。そうしたノスタルジーをかきたてるのが強盗団という反社会的分子であることに、社会秩序への異議申し立てを見てとれないこともないが、異議申し立てが犯罪者礼賛になっては、やはりどこがすっきりしないものが残る。

映画の主人公たちは、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドというかつてのアメリカに実在したギャングたちだ。この二人が悪党たちと語って列車強盗や銀行強盗を働く。列車をたびたび襲われて頭にきた鉄道会社の社長が、腕のいい連中をやとって彼らを追い詰める。追い詰められた彼らは南米のボリビアに高飛びするが、そこでもギャングの本姓を現わして銀行強盗を続ける。そこで当地の警察が彼らを追い詰め、最後には軍隊まで登場して彼らをよってたかって殺すというのが、映画の筋書きだ。この筋書きからもこの映画が痛快なギャング映画であることがわかろうというものだ。

ギャングたちをフィーチャーした似たような作品として、1967年に公開された「俺たちに明日はない」があった。そちらは、1930年代の禁酒法時代に活躍した実在のギャングたちをモデルにしていたが、この映画は19世紀の終わりにアメリカ西部で活躍したギャングたちだ。その点で映画には西部劇の雰囲気がただよっている。銃の名手サンダンス・キッドが左手で拳銃を抜き、ブッチが二丁拳銃を振り回すところなどは西部劇そのものだ。

映画の見所は二つある。一つはブッチ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)の二人が鉄道会社に雇われた腕利きの連中に追われるところだ。この連中には、どんな足跡も暴いて逃亡者の行方を追い詰めるインディアンとか、西部一の腕利きと評判の高い保安官などがいる。彼らとまともに向き合っても勝てる見込みはゼロに近い。そこで彼らはひたすら逃げ続ける。この追いつ追われつの逃走劇が圧倒的な力をもって迫ってくる。二つ目は、ボリビアで警官隊に囲まれた二人が、多勢に無勢にかかわらず超人的な反撃をするところだ。だが警官隊に軍隊までが加わり、何十人もの大がかりな相手に周りを囲まれては生きる見込みはない。映画は二人が周りを取り囲む軍隊の前に身を翻しながら戦いを挑むところで終わるが、これがまた観客をうならせるのである。

二人にはキャサリン・ロス演じるエッタと言う愛人がいる。この女性は学校の教師をしていると言うことになっているが、何故かこの二人と気が合う。気が合うばかりか、二人を平等に愛するのである。そんなわけで二人は一人の女を共有し、相棒の目の前で同じ女を抱いたりするのだ。しかもこの女はボリビアで二人と一緒に銀行強盗のまねをしたりもする。結局ボリビアでの生活に耐えられず一人アメリカに去って行くのだが、映画はこの女がいるおかげで、結構色っぽくなっているのである。

実在したこの二人がボリビアで軍隊と戦った挙げ句に死んだのは、そろそろ中年にさしかかろうという年齢の時だった。劇中の二人は互いに年をとったことを嘆き合っているのだが、西部劇時代のギャングというものは、なんといっても体力がものを言った。衰えた体力では、強盗などできるものではないとばかりに、二人は権力によってつぶされてしまうのである。それにしても日本語の題名「明日に向って撃て」はミスマッチなのではないか。二人は結局殺されてしまうわけだから、彼らの撃つ拳銃には明日への希望が込められているとは言えない。



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