壺齋散人の 映画探検
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ロバート・アルトマン「M★A★S★Hマッシュ」:朝鮮戦争時の米軍の野戦病院



1970年のアメリカ映画「マッシュ」は、朝鮮戦争における米軍の野戦病院の様子をコメディタッチで描いたものだ。1970年といえばベトナム戦争の最中だが、なぜそのベトナム戦争ではなく、20年近くも前の朝鮮戦争をテーマにしたのか、よくわからないところがあるが、どちらにしてもこの映画は、強烈な戦争批判を感じさせないので、ベトナム戦争も朝鮮戦争も大して違いはないということなのかもしれない。

「M★A★S★H」とは、Mobile Army Surgical Hospital(移動米軍外科病院)の略で、重大な負傷を負った兵士の外科治療をすることを目的としたものだ。したがって、描きようによっては深刻な雰囲気になったと思われるが、この映画は人の命も笑い飛ばしてしまうほど、コメディタッチに作られている。何しろこの映画に出てくる医者たちは、ゲームのような感覚で外科手術をしており、また看護婦たちとセックスを楽しむことも忘れない。前線の野戦病院においても人生を謳歌するような連中だ。

野戦病院は当然朝鮮半島のどこかにあるのだが、そこに流されているラヂオ放送は東京発のもので、流れてくる音楽は日本の歌謡曲だ。歌謡曲に限らず日本趣味を思わせるものがこの映画にはふんだんに出てくる。あやしげな芸者ガールとか、日本語の表示などだ。朝鮮戦争には日本もだいぶかかわったから、日本が出てくるのは不思議ではないが、それにしてもこの映画の日本趣味は、箍が外れているといってよいほど、俗悪で偏見に満ちたものだ。1970年といえば、日本の敗戦から25年しかたっておらず、アメリカ人の日本を見る目がまだ侮蔑的だったことを思わせる。

コメディタッチだからということもあるが、将校である医師が看護婦に手を出す場面が頻繁に出てくる。それらの看護婦はほとんど家族持ちなのだが、亭主以外の男とセックスすることに全く罪悪感を抱いていない。むしろ戦場のストレスを解消するにはセックスほど効き目のあることはないとばかりに、めったやたらと婚外セックスを楽しむ。こういう場面を見せられると、アメリカの軍隊というのは、女兵士を性欲発散の切り札として制度化しているように見える。つまり米軍は巨大なセックス産業でもあるわけだ。

セックスは自分自身が楽しむばかりではない。他人のセックスも娯楽の対象となる。尊大な態度で同僚の反感をかった看護婦が、男を誘惑してセックスに及んだ時、けしからぬ奴らがベッドの近くに忍び込み、看護婦のあげるよがり声をマイクロホンで拾って、それを場内放送する。当事者はそれこそよがり声をたてながらセックスに没頭しているので、自分たちのしていることが皆の笑いものになっていることに気づかない。取りようによってはたちの悪いいたずらだが、笑い飛ばされることでたいした事件には発展しない。とにかく鷹揚なのだ。そうでなければ前線のストレスには耐えられないとばかりに。

ストレスに耐えられずにインポテンツになる医師もいる。その医師は自殺を決意するのだが、仲間たちは一芝居を打って彼を助けてやろうと決心する。それがまた面白い。毒薬と見せかけて睡眠剤を飲ませたうえで、看護婦に添え寝させて、彼が目覚めたときにセックスの手ほどきをするというのだ。この計画は見事に功を奏して、医師は能力を取り戻し、看護婦のほうは人助けをしたことに達成感を抱くというわけである。そういうシーンを見せられると、日米の貞操観の相違を強く感じさせられるところである。

映画の終盤では、医師たちがフットボールのチームを組んで、他の部隊と試合するシーンが展開される。フットボールの試合というのがいかにもアメリカ的だ。フットボールの試合には、男たちばかりでなく、女たちも熱中する。まるで無礼講のような騒ぎだ。その試合を通じて、男同士の友情が強化されるばかりでない、女たちも男に同調して、組織全体が一つになる。戦意高揚にはもってこいというわけであろう。

ラストメッセージが流れ、この映画は慰問用に作られた特別番組だとアナウンスされるのだが、そんな演出はなくもがなというところだろう。



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