壺齋散人の 映画探検 |
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1969年のアメリカ映画「スローターハウス5(Slaughterhouse-Five)」は、カート・ヴォネガットの同名の小説をジョージ・ロイ・ヒルが映画化したものだ。ヴォネガットは、初期の村上春樹の小説に大きな影響を及ぼした作家として、そのアンチリアルというか、飛んでる作風が特徴とされる。そうした側面はこの映画の原作にも十分に出ていて、現実と非現実が錯綜する独特な世界を描いているらしい。 アンチリアルという面は、主人公が時空をまたいで異なった世界を行き来するというところに現れており、リアルな面は主にドレスデン空襲を中心とした第二次世界大戦の描き方に現れている。筆者は原作を読んでいないが、映画を見る限りでは、ドレスデン空襲へのこだわりが非常に強いという印象を受ける。それ故この映画は、ドレスデン空襲を中心として、それに色を添えるものとして、アンチリアルな時空間ワープを取り込んだものとも言える。 ドレスデン空襲は、連合軍によるドイツ都市への無差別爆撃として有名で、13万人以上の死者を出したというが、戦争終了後その実態はあまり明らかにはなっていなかった。連合軍側がこの問題に触れるのをいやがったし、ドイツ側も遠慮したからだと言われている。そこをこの映画は、告発タッチではないけれども、連合国側による非人道的な行為がなされたという問題意識から描いたわけだ。この映画のおかげで、ドレスデン空襲は世界中の注目を浴びることになった。 原作は、ヴォネガット自身の体験に根ざしているという。ヴォネガットは、西部戦線でドイツ軍の捕虜になり、ドレスデンの捕虜収容所で連合軍の空襲を体験した。たった一夜の空襲で街が完膚なきまでに破壊され、夥しい数の人々が殺された。その地獄のような光景を目撃してショックを受けたヴォネガットは、その体験を小説に描きたいと思ったが、正面からドキュメンタリータッチで描くよりも、非リアルな装置を組み込んで、フィクショナルに描いた方がインパクトが大きいと考え、いまでいうSFタッチの作品に仕上げたわけだ。 原作の舞台は、戦後だいぶ経ったアメリカの田舎町で、そこで暮らしている主人公の実業家が、戦争のトラウマのおかげでしょっちゅういやな体験を思い出す。ところが思い出すばかりでなく、その体験の現場にそのままワープして行ってしまうのだ。それゆえこの映画は、主人公が全く異なった場面で体験したことを、あたかも実際の出来事が連続して起こっているような描き方をしている。その出来事の中には、異星での若い女性との恋も含まれているのである。 映画の冒頭は、主人公の娘とその夫が、主人公の安否を気にして訪ねてくるところから始まるが、主人公はどこにもいない。その理由は、映画の最後の場面で明らかにされる。彼はUFOに迎えられて異星に旅しているのだ。この冒頭とラストシーンに挟まれた部分で、主人公が同時代と過去のそれぞれの世界を行ったり来たりするさまが描かれる。過去の世界の舞台は主としてドレスデンだ。捕虜になった主人公たちは、ドレスデンの捕虜収容所に連れて行かれるが、そこは正規の軍事施設ではなく、民間の屠畜場を利用したものだった。題名のスローターハウス5とは、その屠畜場の名称なのである。 この屠畜場での米軍捕虜の暮らしぶりが描かれたあと、連合軍によるドレスデン空襲が描かれる。この空襲で米軍捕虜が死ぬことはなかったが、瓦礫の撤去や死体の焼却作業に動員された。その際の体験が主人公に深刻なトラウマを残し、いわゆるPTSDを患ってしまう。映画は同時代における主人公のPTSDの症候と、そのもとになった戦時中の体験とを交互に映し出し、この体験の深刻な効果を立体的に浮かび上がらせようとするわけだ。 空襲体験は深刻だったが、ドイツ軍による捕虜虐待は描かれていない。実際にそんなことがなかったのか、あるいは軽視して省いているのか、そのへんはわからない。そのかわり米軍兵士同士の反目が執拗に描かれている。主人公はちょっとした誤解から、同僚のある兵士から憎まれることになり、折あるごとに嫌がらせを受けたあげく、戦後のある日その男に銃撃され殺されてしまう。なぜそんなことになったのか、映画は納得できる説明をしない。そのことでかえって、戦争が人間の人格を破壊するということを、言外に訴えているのかもしれない。 |
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