壺齋散人の 映画探検
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ウディ・アレンのバナナ:キューバ革命のカリカチュア



「ウディ・アレンのバナナ(Bananas)」は、ウディ・アレンが監督・主演した二本目の映画で、いわゆるウディ・アレンさが見られる最初の本格的な作品だと言うことだ。ウディ・アレンらしさというのは、ギャク漫画を映画に転換させたような軽いタッチのコメディで、それを小男のアレンが真顔で演じることで比類ないユーモアを感じさせるということらしい。そういう「らしさ」を、この映画は十分感じさせてくれる。

ギャグ漫画的な映画だから、次々と繰り出される個々のギャグにポイントがあるのであって、筋書は二の次のようでもあるが、この映画の場合には、一応筋書きらしいものはある。ウディ・アレン演じるアメリカの冴えない風来坊が、恋人に愛想をつかされた挙句、一見してキューバとわかる国に行って、そこで大統領に担ぎ出されたはいいが、国を治めるための金が無いというので、アメリカへ戻って金を集めようとするが、アメリカでの過去の言動から「デモの常習犯で、アカのワル」というレッテルを貼られて裁判にかけられてしまう。そこであやうく死刑になりかけるが、なんとか罪を逃れた上に、元の恋人とよりを戻すというものだ。

ポイントは、キューバ革命のカリカチュアということらしい。それは、大統領に担ぎあげられたアレンがとうもろこしの毛でカストロ髭を生やすところからもわかる。アレンがなぜキューバを笑いものにするかといえば、どうやらカストロの独裁国家だというのがその理由らしい。しかしアレンは、カストロを笑いながらアメリカを礼賛するかといえば、そうでもない。アメリカはアメリカで、笑うべき点が多々ある、そういうスタンスでいるようだ。アレンがアメリカとのかかわりで一番拘っているのは、その反ユダヤ感情のようだ。映画の中では、この反ユダヤ感情への違和感というか、批判めいた主張があちこちで出てくる。

とはいえ、恋人に振られたことと反ユダヤ感情とは一応別のものとして分けている。アレンが恋人に振られたのは、反ユダヤ感情のせいではなく、彼の性的能力不足のためだ。恋人によれば、彼は彼女を十分に満足させてやることが出来ないのだ。なぜそうなのか。どうもアレンは早漏気味のようなのだ。そのうえ、味付けも不足していると言われる。味付けとはセックス・テクニックということだろうか。

それでもアレンはセックスが好きで、自分が死にたくない理由はセックスが出来なくなるからだと言っている。

セックスとならんでアレンが拘るのはタバコだ。映画の中ではタバコの銘柄として「ニュー・テスタメント」と言うのが出てくる。これは人類に禍をもたらす名前として言及されるが、それはユダヤ人であるアレンのキリスト教文明への批判の現われだと思う。アレンはユダヤ人学者アーレント同様に、キリスト教文明がユダヤ人迫害の最大の原因だと思っているらしいのである。

地下鉄の車内で無頼漢が乗客相手に無礼を働くシーンが出てくる。それを他の乗客たちはみな見て見ぬふりをしている。こういうシーンはアメリカでは日常茶飯事なのだろうか。体力のないアレンは、堂々ととがめることはできないので、智慧を働かせて無頼漢を牽制する。一度は無頼漢を列車の外へ放り出すのだが、またもや中に入ってこられて追いかけられる仕儀と相成る。この辺はアメリカ喜劇の伝統であるスラップ・スティックの精神が十分に発揮されている。この映画はスラップ・スティック・コメディとしてもすぐれていると言える。

ラストシーンは、恋人とめでたく結ばれたアレンが、大勢の人々の前でウェディング・セレモニーを行った後で、床入りの儀を行う場面だ。その床入りの部屋に大勢の人々がオブザーヴァーとして参加し、その模様を観察する。ご丁寧なことに全米チェーンのテレビ局がそれを実況中継する。かくしてアメリカ中の関心を一身に集めた二人が、せっせと初夜の儀式に励むというわけなのだ。

原題の「バナナ」が何を象徴するのか、わからない。キューバにもバナナの実はなるようだが、この映画の中ではバナナは正面には出てこない。出てくるのはカストロ髭にされたとうもろこしの毛だ。



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