壺齋散人の 映画探検
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ウディ・アレン「それでも恋するバルセロナ」:アメリカ女のアヴァンチュール



「それでも恋するバルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)」は、二人の若いアメリカ女がスペインのバルセロナを舞台にして繰り広げる恋のアヴァンチュールを描いた映画だ。アメリカ女たちの名前は、タイトルにあるとおりヴィッキーとクリスティーナ。二人はバルセロナへ観光旅行に来ている。その二人の前に、画家を標榜するスペインの色男が現われ、いきなり三人で乱交セックスをやろうと誘われる。さすがにすれた女たちも、この申し出をどう受け取っていいのか戸惑うのだが、そのうち男の魅力に屈服し、一人の男を二人の女が共有するという事態に発展する。男女のやりとりに熟達したスペイン男と、尻軽なアメリカ女たちが繰り広げる行動は、恋のアドヴェンチャーというよりは、セックス賛歌といったほうがよいかもしれない。

クリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)のほうはもともと尻軽な傾向が強かった。ヴィッキー(レベッカ・ホール)は女の操を大事にするタイプなのだが、最初にスペイン男(ハビエル・バルデム)と寝るのはヴィッキーの方なのだ。そのヴィッキーを男はあまり好きになれない。一方ヴィッキーは男とのセックスに味をしめて、フィアンセがいるにかかわらず、もっと寝て欲しいとねだる。そんなヴィッキーに男は、君にはフィアンセがいるじゃないかといって説教するのだ。

クリスティーナが男と寝損ねたのは胃潰瘍のせいだった。いざベッドインというときになって胃潰瘍の発作をおこしてしまったのだ。だが発作がおさまり体調がよくなると、男と本格的なセックスライフをもつようになる。その二人の住んでいる家に、男の別れた妻(ペネロペ・クルス)がやってきて、今度は本格的に一人の男を二人の女で共有することになる。そればかりか、女同士で同性愛を楽しんだりもする。そんなわけでこの映画は、男と女、女と女の、乱れたセックスをほんのりとしたタッチで描くのである。

男のそもそもの目当てはクリスティーナだったらしい。しかしクリスティーナが病気のためにセックスできないとなると、次善の策としてヴィッキーにモーションをかける。この男は、女なしでは生きて行けないタイプなのだ。誘惑されたヴィッキーは、最初は「望まないものはわかるけれど、望むものはわからないの」などといってはぐらかしていたが、いとも容易に、自分が本当は何を望んでいるのかを、男からわからせてもらう。情熱的なセックス、それこそ自分が望んでいるものなのだ。彼女のフィアンセでは、その望みはかなえられないだろうとわかっているのだ。

一方クリスティーナのほうは、「成就しない愛はロマンティック」などといって、男をヴィッキーに横取りされた無念をまぎらわしていたが、男が自分のほうに向き直ると、いとも容易に寝てしまう。彼女は寛容な精神の持ち主なのだ。その寛容性は、男が別れた妻と縒りを戻し、あまつさえ男一人と女二人が共同生活をするのを許すところにも現われている。そんなクリスティーナを男は最後に捨てる。クリスティーナは、セックスの相手としては役にたつが、一緒に暮すには退屈すぎるのだ。

こんなわけでこの映画は、乱れに乱れた男女関係を描いているのだが、その割には猥雑さをあまり感じさせない。スペイン男があっけらかんと描かれているせいだろう。セックスは排泄と同じ生理現象のようなものとして描かれている。セックスは精神的な行為ではなく、あくまでも肉体の衝動なのだ。

この映画にも、ウディ・アレン本人は出てこない。アレンが出てきたら、コメディタッチが強まって、セックスはもっとパロディ化するだろうと思う。この映画をアレンはパロディにはしたくなかったようだ。

バルセロナが舞台とあって、バルセロナの街が情緒豊かに映されるところもある。サグラダ・ファミリア教会は出てこないが、ガウディが作った集合住宅は出てくる。それを見ていると、ガウディが天才だと改めて感じさせられる。建物が曲線によって構築されているのだ。



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