壺齋散人の 映画探検
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荒武者キートン:バスター・キートンのドタバタ喜劇



バスター・キートンは、チャップリン及びハロルド・ロイドと1920年代のサイレント喜劇映画の人気を分けた。チャップリンの映画が人間的な温かみを感じさせるのに対して、キートンの映画は徹底的にスラップ・スティック・コメディに拘った。それが今日の視点から見てもなかなか新鮮に映る。山口昌男はかつてキートンの映画を評して、宇宙論的な深遠さを感じさせると言ったが、そんなに大げさに受け取らなくても、彼の映画は実に痛快である。とりわけ見ものなのは、キートンがつねに喜怒哀楽を表に出さず、全く無表情といってもよいのに、そのなすことが仰天動地の猥雑さを示すところだ。猥雑な行為を無表情に行うというのは、どこかしら不気味さを感じさせるものだ。

1923年の作品「荒武者キートン(Our Hospitality)」は、キートンの長編喜劇映画の初期の傑作である。スラップ・スティック・コメディであるから、大したプロットはない。自分の命をねらう相手から、命からがら逃げ回るというものである。そこに女性が絡んで、主人公は散々逃げ回ったあげくにその女性とめでたく結ばれる、という他愛ない話である。

命をねらわれる若者は、別に自分のしたことでそうなったわけではない。この若者の父親が、隣の親爺と犬猿の間柄で、その家族を殺し自分も死んだことが発端だ。父親の死後、若者はニューヨークの伯母に育てられるが、成人して故郷の村に戻ってくる。するとそこには父親を恨む親爺とその息子たちが待ち構えていて、若者の命をねらうというわけなのである。この親爺には一人娘がいて、若者はその娘と故郷へ向かう鉄道馬車の中で懇意になっていた。そんなことで、この娘と一緒に親爺の家の中にいる限りは命を狙われることがない。親爺たちは、自分の家の招待客を殺すわけには行かない、というくらいの常識は持ち合わせているのである。原題のOur Hospitality(おもてなし)は、そんな親爺たちの立場に立った言い方なのだ。

見所ははらはらどきどき連続のアクションシーンだ。まず、ニューヨークから故郷へ向かう鉄道馬車のシーンがある。これは四輪馬車を蒸気機関車に引かせて走るという代物なのだが、この映画が作られた時代には、とっくに骨董品になっていたはずだ。鉄道馬車であるから、荒涼たる平原を線路が走っている。その線路に驢馬が立ちふさがって往生すると、強情な驢馬を動かすことをあきらめて、鉄道の線路を移動させるといった具合だ。なにしろ、その速度たるや犬よりも遅いのであるから、ロバにもバカにされるわけである。

この鉄道馬車のなかで懇意になった女性から夕餉に招かれた若者は、相手に自分の身元を知られて命をねらわれるようになる。相手は親爺とその二人の息子で、娘は悪いことに、その家族の一員だったのだ。娘の家族である親爺以下の三人はそれぞれ銃を持って若者を殺そうとするが、娘の手前、家の中では殺さない。それを知った若者は、永久に家から出ないと誓ったりするが、隙をみて、馬に乗って逃げる。

その後、絶壁に追い詰められたり、ダムの近くで釣りをしていたところダムが決壊して洪水に巻き込まれたり、濁流を流されるうちに巨大な滝に飲み込まれそうになったり、息をのむような冒険が続く。その冒険の間じゅう、キートンはつねにポーカーフェイスなのだ。そのポーカーフェイスが、現実に進行している事態のあわただしさと劇的なコントラストをかもし出し、見るものをして報復絶倒せしむるというわけなのである。

こんなわけでこの映画は、報復絶倒させられる割には肩が凝らない。かえって気分がすっきりする。余計な仕掛けがなく、ただただ無邪気なアクションの連続からなっているためだろう。



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