壺齋散人の 映画探検
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わらの犬:サム・パキンパー



西部劇ばかり作って来たサム・ペキンパーにとって、1971年の作品「わらの犬」は、はじめての現代劇だが、これは暴力描写が得意のペキンパーの映画のなかでも、とりわけ暴力的な作品だ。その暴力は、ほかの作品の暴力より一段度を超した印象を与える。西部劇の暴力は、だいたい拳銃を通じて行われるので、ある種メカニックな印象を与えるが、この映画の中の暴力は、棍棒とか鉄棒とか、いわば人間の身体の延長を通じて行使されるので、露骨に人間的な暴力といった観を呈しているのだ。

その暴力の舞台とされるのは、アメリカ映画ではあるが、外国、おそらくイギリスの片田舎ということになっている。しかし、こんな理不尽で血なまぐさい暴力が、アメリカ以外の国で振るわれるとも思われない。だから観客は、これを、「イージーライダー」同様、アメリカ南部当たりの片田舎と想定して見たほうが、リアリティが増すというものだ。

映画は、その片田舎に夫婦で移住してきたアメリカの学者が、田舎のならずものたちとすったもんだあったあげく、彼らと命を掛けた殺し合いを展開するところを描く。ダスティン・ホフマン演じる学者は、わずらわしい都会生活を避けて、妻エイミーの故郷に移住してきたのだったが、そこにはかつて妻と恋仲だったらしい男の他、わけのわからぬチンピラたちが大勢いて、彼らの生活に介入する。たとえば、彼らの愛していた猫を、クロゼットの中に吊るすといった悪ふざけを仕掛ける。それが騒ぎのきっかけだ。

かつての恋人らしい男は、何とかしてエイミーとセックスしたいと思っている。一方エイミーのほうは、夫の学者が自分のことをあまりかまってくれないので、欲求不満になっている。そんな折に男は、仲間たちとぐるになって学者を外に連れ出し、その合間にエイミーを強姦する。エイミーはしかし、欲求不満だったこともあり、初めは拒絶していたその男を、だんだんと受け入れていく。しかもエクスタシーにまで達する。ところが、男の仲間にも強姦されると、自分がどんな立場に落ちてしまったか、痛感させられるのだ。

妻は、自分が強姦されたことを夫に言えない。そうこうしているうち、田舎の教会での催しに参加し、強姦した相手と会ったりするのだが、それでもエイミーはやられたことを夫に言えない。かれらは協会から家へ戻る途中、ある男を車で引っ掛けてしまい、動転した学者は、その男を自分の家まで連れて行く。その男は精神薄弱者で、教会でのパーティの最中に、ある女性を誤って絞め殺していた。その女性の父親が、娘のいなくなったことを大いに心配するのだが、関与を疑っている精神薄弱者が、学者の家にいるとわかると、ならず者たちを引き連れて、五人で押しかけて来る。その連中と学者は、命を掛けた戦いを展開するというわけなのだ。

押しかけて来たならず者たちの中には、エイミーを強姦した二人も含まれている。そんなことは知らない学者だが、怯えたエイミーが時折妙な言動をする。自分を強姦した男に、こびを売るようなことをいうのだ。このままでは殺されてしまうので、なんとか夫のもとを離れて敵の懐に入ってしまいたい。そうすれば、もう一度強姦されることはあっても、殺されることはないだろう。そう思ってのことだというふうに伝わって来る。そんな妻に不信を抱きながらも、夫の学者は果敢に戦う。いったんは、少佐と呼ばれる地元の名士が仲裁に現われたりもするが、その中佐も殺されてしまい、夫の学者は孤軍奮闘を迫られる。

しかし、学者は緻密な作戦を行使し、相手を翻弄した挙句に、ついに一人残らず殺し尽してしまうのだ。相手を殺し尽して一息ついた学者は、精神障害者を車に乗せると、妻を残して旅立つ。そこで映画は終るのだ。

というわけで、筋書きになにか特別の意図があるとも思われない。純粋に暴力を堪能できるように作られている映画だ。この映画がきっかけで、一時、暴力の被害者が、復讐するにあたって自分の受けた暴力をはるかに超える暴力を、相手に対して振るうといったタイプの映画が流行ったということだ。それほど、ペキンパーのこの映画は、大きなインパクトを持っていたということである。




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