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スティーヴン・スピルバーグ「リンカーン」:リンカーンの人間性を描く



スティーヴン・スピルバーグの2012年の映画「リンカーン」は、南北戦争と奴隷解放へのリンカーンのかかわりをテーマにしたものである。リンカーンといえば、アメリカ史上もっとも人気のある大統領ということもあって、非常に多くの映画が、さまざまな角度から作られたわけだが、この映画は、奴隷解放についての彼のかかわりに焦点を当て、それとの関連で南北戦争を描き、また彼の家族との触れ合いを通じて人間としてのリンカーンをも描くというものだ。

アメリカ史の常識では、南北戦争は奴隷制の維持を主張する南部諸州が合衆国から脱退したことから始まったということになっており、その理由としては、1860年の大統領選挙で勝ったリンカーンが奴隷制廃止を主張したことに南部諸州が反発したことが挙げられていた。つまりこのすさまじい内乱は、リンカーンによって引き起こされ、その当のリンカーンによって収束されたが、その政治的な効果として、奴隷制度の廃止がもたらされたということになっている。

そんなわけで、歴史の常識にもとづいて映画化するとすれば、リンカーンは奴隷制廃止の大義のために南北戦争を引き起こし、それに勝ったことで自分の政治的信念たる奴隷制の廃止を実現できたというふうにするのが順当なやり方ということになる。だが、この映画は、そこのところを多少ひねっている。

この映画では、リンカーンが奴隷制廃止にこだわるあまり、まずそれを憲法修正13条という形で実現することに注力し、それが実現した後に、戦争を終わらせるための交渉に臨んだというふうに描かれている。つまりリンカーンは、戦争に勝ったから奴隷制を廃止できたのではなく、奴隷制を廃止する見通しがついたので戦争を終わらせたというふうに、時間の順序が(歴史の常識とは)逆になっているわけである。

このことを通じてスピルバーグは、奴隷制廃止についてのリンカーンの決意の強さをアピールしたかったのだと思う。スピルバーグはユダヤ人として、人種差別には敏感なところがあるので、彼自身の抱く人種差別への抗議を、リンカーンというアメリア史の偉人に投影したかったとも考えられる。

現実のリンカーン自身は、たしかに奴隷制はよくないと思っていたが、この映画が主張するほどに、がちがちの奴隷制反対論者ではなかったというのが事実である。彼はもともと、南部諸州の奴隷制を廃止すべきだなどとは思っていなかった。ただそれが北部諸州に拡大することを憂慮していた。北部で奴隷制が合法化されれば、白人が奴隷になる事態も予想される。それはリンカーンの政治的信念に大いに反する。だからリンカーンとしては、南部の奴隷制の現状には目をつぶりながら、それが北部に拡大することを阻止できるようなシステムを作ればいいくらいに思っていた。

しかし、予期せぬことから南北戦争が勃発し、国をあげての内乱となり、数十万のアメリカ人が戦死するという事態になると、戦争の遂行を合理化するような理屈が強く求められるようになる。大義のない戦争などありえないからだ。そこでリンカーンは、奴隷制廃止を南北戦争の大義として強調せざるをえなくなった。実際、四年以上にわたる内乱のうち、後半では奴隷制の廃止が最大の焦点となってきた。戦争に勝って、その目標を実現する、そのために戦争を勝ち抜こう、というのがリンカーンの立場となったわけである。

映画では、リンカーンが何よりも奴隷制の廃止を担保する憲法修正13条の可決に全力をそそいでいるところが描かれる。南北戦争は、奴隷制の廃止のために戦われているのだから、その目途が立たないうちはやめるわけにはいかない。それで、南部から和戦の申し出があっても、ただちには応じない。まず、北部諸州で修正13条を可決した後に、南部からの和戦の申し出を受け入れる、それも降伏というかたちで。そんなわけでこの映画は、なんとかして修正13条を可決させようとするリンカーンの意地のようなものに焦点をあてているのである。

その過程で、修正13条に反対している民主党の議員を賛成に回らせるべく買収工作をする場面が出てくる。買収の条件は金になる公職だ。その魅力に惑わされて賛成に回る議員が出たおかげで、修正13条が成立するというわけである。こういう場面を見せられると、アメリカの政治というのは、昔から一貫してメリットシステムの上に成り立っていたということがわかる。

この映画はまた、人間としてのリンカーンにも熱い視線を向けている。リンカーンはこの戦争で長男を失ったことで妻との間にわだかまりが生まれている。次男も志願したいと言い出した時は、何とかして思いとどまらせようと、父親としてできるかぎりのことをするが、それができずに終わると、二人目の息子を失うことを恐れる妻からさらに強い反発を受ける。そんな妻の気持をおもんばかりつつ、精神不安に陥った末息子への目配りを忘れないなど、夫あるいは父親として悩むリンカーンの姿にも光を当てている。そのあたりは、やはりアメリカの歴史上もっとも人気のある大統領としてのリンカーンへの敬意がそうさせるのであろう。リンカーンは政治家として偉大であったばかりか、人間としても偉大であったというわけである。



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