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オリヴァー・ストーン「ニクソン」:ニクソンの半生を描く



オリヴァー・ストーンの1995年の映画「ニクソン(Nixon)」は、米元大統領リチャード・ニクソンの政治家としての半生を描いた作品。ニクソンは1994年に81歳で死んだので、おそらくその死に触発された作ったのだろうと思う。

ニクソンは非常に毀誉褒貶の激しい政治家で、毛嫌いする人が多いのであるが、厳しい見方をしたとしても、政治家として大きな功績をあげたことは否定できない。泥沼化したヴェトナム戦争を終わらせたこと、ソ連との冷戦を緩和させたこと、共産中国と和解し、中国を国際秩序のなかに取り組んだことなどは、特筆すべき功績である。にもかかわらず、そうした功績が台無しになるほどに、彼の人気は低い。それはどういう理由からか。映画はそうした疑問に応えるような形で展開していく。

ニクソン失脚の最大の原因はいわゆるウォーターゲート事件であり、映画もその事件への言及から始まる。しかしもっと根本的な理由は、ニクソンの人間的な欠陥にあったというのが、この映画のニクソンへのスタンスである。ほめるべきはほめ、けなすべきはけなす、ということだろう。

ニクソンの人間的な欠陥は、かれのコンプレックスに根差している。かれはケネディ一族に異常な対抗心をもっていたが、それは毛並みのよいケネディへの劣等感からきたものだった。ケネディは金持ちでしかも高い教育を受けている。それに比べて自分は貧乏人の生まれで、苦学しながら出た学校は二流大学だった。そうしたコンプレックスがケネディへの異常な敵愾心に発展した、というのが映画の解釈である。ニクソンは節目で陰謀めいたことに手を染めたが、ケネディ兄弟の殺害にも何らかのかかわりを持っているのではないか。そんなふうにほのめかすところもある。JFケネディ暗殺には、CIAがかかわっていたとする説もあり、そのCIAを通じてニクソンがケネディを暗殺させたというシナリオはありえないことではない。

ウォーターゲート事件は、ニクソンのそうした陰謀好みが脱線したということだろう。ニクソンは当初このスキャンダルを楽に乗り越えられると考えていたが、そうはならなかったのは、問題の本質がスキャンダルに巻き込まれたということではなく、自分への民衆の憎しみが爆発したからだ。そう自覚したときに初めて、ニクソンは自分の政治生活の終わったことを認めざるをえなかった。その直前にニクソンは最愛の妻からも引導をわたされ、天涯孤独の身になったことを思い知らされていたのである。

映画は、ニクソンの少年時代までさかのぼって、ニクソンの性格形成過程を追っている。そこから浮かび上がってくるニクソンの人間像は、信仰深く、家族思いだということである。ニクソンはまた女遊びとは縁がなく、セクハラ騒ぎをおこしたこともない。それに比べるとJFケネディは女たらしで不信心だと言われている。たしかにケネディはあのマリリン・モンローをベッドに侍らせたというから、性欲は盛んだったのだろう。ケネディ夫人ジャクリーンが、夫の死後まもなくギリシャの富豪と再婚したのは、女癖の悪かった夫への当てつけだったのかもしれない。

ニクソンは、信仰深く家族愛も豊かだったにかかわらず、こと政治のことになると容赦がなかった。かれは政治を戦いと受け止めていたのだ。その戦いには手段を選ばないところがあった。そういうところが政敵のみならず、周囲の人に嫌われる理由になった。ウォーターゲート事件が予想を超えて炎上したのは、チームの結束が崩れたからだが、その結束を崩したのは、仮借のないニクソンの性格だった、というふうに伝わってくる。

カストロの名前が何度も出てくる。ニクソンの周りには亡命キューバ人が群がっており、その連中がニクソンを使ってカストロを排除し、キューバを自分たちの天下に取り戻したいと思っている。ケネディ暗殺にもかれらキューバ人グループがかかわっているのではないか、そんなふうに思わせる。

ニクソンが政治家としての道を踏み外したのは、そうしたいかがわしい連中と黒い付き合いを続けたからだというようなメッセージが伝わってくるようになっている。ニクソンはマッカーシズムで出世のきっかけをつかんだのだったが、その折に、いかがわしい右翼と深く結びついてしまったために、政治家としてのキャリアを狭いものにしてしまった。仕事ぶりは悪くなかったのだから、もう少し人間的な振る舞いができていたら、名実ともに偉大な大統領になれたはずだ。そんなメッセージを発しながら映画は終わるのである。




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