壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真西洋哲学 プロフィール掲示板


フランク・キャプラ「スミス都へ行く」:米議会上院の議事を描く



フランク・キャプラの1939年の映画「スミス都へ行く(Mr. Smith Goes to Washington)」は、アメリカ上院の議事の様子をテーマにしたものである。アメリカ上院にはユニークな議事慣行があって、いかなる議員も他の議員の妨害を受けずに自己の主張を続けることができる。基本的には無制限に演説を続けることができるのである。これはおそらく少数意見の尊重を目的としたものだと思われるが、場合によっては議事妨害の手段にもなる。実際映画の中でも、議事妨害だと言っているものもいる。しかしそれによって少数者の意見が尊重される効果はたしかにある。とかく少数派の意見がコケにされる日本の議会にも、見習う価値があるのではないか。

ジェームズ・スチュワート演じる青年ジェフ・スミスがひょんなことから上院議員に担ぎ出される。ワシントンに出て来た青年はあこがれのリンカーン像を見て発奮し、自分も人々のために有益なことをしたいと考える。そんなスミスに秘書のサンダース(ジーン・アーサー)が知恵を貸し、スミスの故郷の谷に国立少年キャンプ場を建設する計画を練る。しかしてその計画を法案にまとめ、議会の議決を得て実現しようと意気込むのだ。

ところがその谷には、地元の実力者たちがダムを建設する計画が進められていて、スミスの計画とは真正面からぶつかる。ダム計画には汚職の匂いもあって、それには地元州の知事やら地元選出のもう一人の上院議員もからんでいる。そこで地元をすべて敵に回したスミスは、孤軍奮闘の状態に追い込まれるが、それでも意気消沈せずに、真っ向から戦いに挑む姿勢を貫くのだ。

しかし敵は狡猾窮まる連中で、たちまちスミスを苦境に追い込む。疑獄事件をでっちあげられた上に、同僚の上院議員から上院追放の動議まで出されるのだ。そのやり方の汚さに一度は愛想をつかして政界から身を引く決意をしたものの、サンダースの励ましもあって、不正とは断固として戦う決意をする。しかし彼にはふるうべき戦力がない。唯一の戦力は議会での演説を通じて、人々の理解と協力を得る事だけだ。

そういうわけでスミスは、上院議場に出席して、自己の正統性を主張し、敵の陰謀を暴こうとする。その時に彼の味方をしたのが、上院議事規則だったわけだ。この規則のおかげでスミスは、ほかの議員に邪魔されることなく自分の主張を延々と述べることができる。いったん着席するとその資格が奪われるとあって、立ったままで延々としゃべり続ける。それを他の議員はなすすべもなく聞かなければならない。

そうこうしているうちに、彼の演説の効果が表れ、彼を貶めようとした上院議員は自分の非を認める。かくして彼の無実が証明された上に、彼の計画も晴れて日の眼を見る事が出来た、というような内容である。

こんなわけでこの映画の見どころは、スミスが延々と演説を続ける場面にある。彼はその演説のなかで自分の計画のすばらしさを訴え、また政敵の汚職を糾弾し、合衆国憲法に顕現されたアメリカ的な価値観について賛美する。そして自分こそはその価値観に身命を捧げる覚悟をしているのだと主張する。その主張に、まわりの議員たちも次第に共鳴するというわけである。

そんな具合にこの映画には、アメリカ的なものを賛美するというプロパガンダ性も認められる。それはおそらく逼迫する第二次大戦を前にした時代の雰囲気がそうさせたという面もあろう。スミスが上院で初めて宣誓をする場面では、そうした価値観が露骨に前面に出ている。それは、ヨーロッパからやって来た白人たちがアメリカという国を作ったのであり、今後ともそうした白人の利害に忠実なことが議員には求められるというような内容のものであった。

なお、この映画の中では、上院議員の数のことがしばしば強調されるが、定員は96人とされている。この映画の時点では、アメリカは48州で構成されていたのである。その上院議員たちは、合衆国全体を代表しているというよりは、出身の州を代表しているように伝わってくる。その点に、日本の参議院との根本的な相違を感じさせられる。

上院の議場には大勢の少年たちが働いていて、彼らがなにかと議員たちの世話をする。これは現在でもそうなのか、興味深いところだ。サッカーなどのスポーツでも子供たちが選手にサービスする慣行があるようだが、これとこの映画の中の少年たちの働きぶりとは、何らかの関連があるのだろうか。



HOME フランク・キャプラ 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである