壺齋散人の 映画探検
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アメリカの参戦:フランク・キャプラの戦意高揚映画



フランク・キャプラは、1942年から45年にかけて「我々は何故戦うかWhy We Fight」と題される戦意高揚映画のシリーズを作った。これらは劇場向けの一般公開を目的としたものではなく、軍人向けの教育映画として作られたものであり、アメリカ軍の依頼に基づくものである。全部で七作からなり、日独伊の枢軸国による無法な侵略を糺弾し、米軍兵士たちの戦意を高揚することをねらっていた。六作目までは、日独伊三国の無法行為を国別に紹介する手法をとり、最後の七作目は「アメリカの参戦」と題して、何故アメリカが第二次世界大戦に参戦したかについて、その経緯を描いている。それまでの六作についての総集編という位置づけを持つとともに、アメリカ参戦をオーソライズするものである。

こんなわけで、この映画のシリーズは非常にプロパガンダ性が強く、劇映画としての要素はない。ほとんどが戦争の実情の紹介と、それについてのアメリカ政府の公式見解が盛り込まれている。映像もキャプラ自身が創造したものではなく、当時利用可能だったドキュメンタリー映像を採用している。キャプラとしてはそうすることで、枢軸国の無法性を枢軸国自らによって証明させようとしたのだとされる。

最終作である「アメリカの参戦」は、総集編としての位置づけに相応しく、それまでの六作で紹介していた枢軸国側の動きをアンソロジー風に紹介する。そのことで、第二次世界大戦が勃発し、それが戦われてきた経緯が、立体的に浮かび上がるようになっている。これを見ると、当時のアメリカ人が第二次大戦について描いていたイメージがよくわかる。

それによれば、第二次世界大戦は、日独伊の三国が世界侵略を目的として起こしたものとされる。現在の通説では、この大戦は1939年のドイツによるポーランド侵略から始まるとされるが、この映画では日本による中国侵略のメルクマールである満州事変をもって第二次大戦が始まったとみている。1931年のことだ。その後1933年にはドイツによるチェコ侵略の動きがあり、1935年にはイタリアによるエチオピア侵略がある。こうした枢軸国側による一連の侵略が第二次大戦を引き起こしたという見方である。

1937年には上海事変が起こって日中戦争が本格化し、1938年にはドイツがオーストリアを併合し、1939年にはポーランドに侵攻する。これが決定打となって、英仏がドイツに宣戦布告し、ここに本格的な第二次世界大戦が勃発する。

この戦争に当初アメリカは消極的だった。それは建国以来の政治的伝統である対外的消極主義の現われであったのだが、そのうちに大戦参加に積極的な世論が高まっていった。それは枢軸国側の無法行為から民主主義を守らねば、いずれアメリカ市民にも侵略の魔手が伸びてくるだろうという恐怖が現実感をましたためだった。そのアメリカ人の恐怖と怒りを、日本が決定的に焚きつけた。真珠湾の奇襲である。これがアメリカ人を参戦へと立ち上がらせた。

つまり第二次世界大戦の開始は、この映画の見方によると、日本がまず満州侵略によってきっかけを作り、真珠湾奇襲によって仕上げたということになる。この日本とその仲間であるドイツとイタリアがともにスクラムを組み、世界の制覇を狙った。それに対してアメリカは、自由を守るために立ち上がった。だからこの大戦は日独伊という無法国家群とアメリカを先頭とする正義の国家群との互いに存亡をかけた戦いなのだというメッセージが強く伝わってくる。

そんなわけで、この映画の中では、自由を守る戦いというキャッチフレーズが頻発される。日独伊の無法者たちと戦わねば、世界中が彼らによる支配に屈し、地球上から自由がなくなってしまうだろう。そうした危機感が、人々を戦争に向かって立ち上がらせる力として見なされているわけだ。

アメリカという国は人為的に作られた国であるし、したがって人種的にも雑多であり、すべての人々が無条件に共有する伝統とか郷土愛とかいったものは、存在しないも同然である。そういう国柄にとって国民を戦争に立ち上がらせるためには、大義が必要となる。その大義はアメリカの場合、自由を守ると言った抽象的な形を取らざるを得ない。その大義がなければ誰も自分の命をかけて戦う気にはならないものだ。だからこの映画は、とりあえずは戦争に動員される兵士たちを対象にして、彼らに自分の命をかけて守るべきものは何かを、教えているわけである。

そんなわけだから、この映画の中での日本の描き方は否定的である。日本は自由への敵対者として描かれている。その自由の敵対者が、身体的にはコビトのように小さい。例えば開戦直前に特命全権大使を務めた来栖三郎などは、コビトのように小さな体で大男のアメリカ人をせせら笑う狡猾な人間というふうに描かれている。まあこれは敵方の人間を描いているわけだから、多少は割り引いて受け取ることが必要かも知れない。


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