壺齋散人の 映画探検
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木下恵介「永遠の人」:農村の身分差別



木下恵介の1961年の作品「永遠の人」は、実に暗い印象の映画である。テーマは戦前の日本の農村における身分差別だ。この身分差別のおかげで、許婚がいながら地主の倅から強姦された女が、泣き寝入りして、その嫁となったものの、この男を生涯憎み続ける一方、かつての許婚を思い続けるといったストーリーだ。いまではこんなストーリーはあり得ない話だが、戦前の日本では珍しいことではなかった。そういう思いを込めた映画だ。

木下には、戦前の「陸軍」とか戦後の「日本の悲劇」のように、社会的な視線を強く感じさせる作品の系列があるが、これもその一つだ。問題意識としてはわからないでもないが、あまりにも暗い印象に仕上がっており、映画としては成功しているとは言えない。

舞台は九州の阿蘇地方。仲代達也演じる地主の倅が戦場で足を負傷して戻ってくる。そこで高峰秀子演じる女を見初め、これを強姦して思いを果たす。女には言い交わした男がいて戦争から戻ってくるのを待っている。そこを強姦されたので絶望して死のうとするのだが、死にきれないばかりか、惰性に流されて嫁に納まってしまう。この村では地主の意志は絶対で、小作人はそれに逆らえないのだ。この女も自分が逆らえば自分の親が生きていけないことを知っている。それで地主の言いなりになるというわけだ。

一方女が思っている男(佐田啓二)もこの地主の小作人で、その意向に逆らえないことをよくわかっている。それ故自分から身を引いて女が地主の妻になるのを傍観するだけなのだ。

こんな業を背負った女は、亭主のことを生涯かけて憎み続ける。憎むだけでなく徹底的にいびる。夫のほうはたしかに強姦して手に入れた女ではあるが、彼は彼なりに女を愛しているのであって、いつまでも根に持たれていびられるのはつらい。最もつらいのは、三人できた子どものうち自分が一番気に入っている長男を妻が嫌っていることだ。その理由は強姦された日に身ごもったことだと妻は公言し、長男へもつらくあたる。長男はそれを悲観して自殺してしまうのだ。

これは自分を強姦した男が憎いあまりに、強姦の結果生まれてきた子まで憎むというもので、罪のない子どもとしてはやりきれない話だろう。

サブプロットとして思い人の佐田啓二の結婚生活が触れられる、佐田自身の結婚生活も惨憺たるもので、音羽信子演じる妻が男を作って逃げてしまうのだが、彼女が残していった息子が成人して立派な男となり、高峰達の娘と夫婦になる。最後のシーンはこの子どもたち夫婦と高峰秀子に守られながら佐田が息を引き取るシーンだ。その場で高峰は夫と思い人とが和解してくれることを望む。それが死んでゆく者への最大の手向けだと思うからだ。最初は拒絶していた夫の仲代も妻の気迫に折れて和解する気になる。そこで映画は終るのである。

こんなわけで最後には憎みあう者同士が和解するとはいえ、それまでに至るまでの夫婦の憎みあいが尋常ではない。その憎みあいの背景に戦前の堅固な身分秩序が影を落としているというのがこの映画の最も肝心なメッセージだ。

高峰秀子はこれ以前の木下映画では頭の弱い女を演じさせられていたが、この映画では怨念の塊となったすさまじい女を演じている。その演技には鬼気迫るものがある。



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