壺齋散人の 映画探検
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酔いどれ天使:黒沢明



黒沢明の映画「酔いどれ天使」は、戦後の日本映画のひとつのジャンルになったアクション映画の元祖のようなものだ。暴力、犯罪、怒りといったものがアクション映画の基本的要素であるが、この映画にはそれらがまんべんなく盛り込まれている。しかも、その盛り込み方が中途半端ではない。暴力ひとつとっても、人間たちの怨念が息づいた実に人間的な暴力なのだ。三船敏郎という稀有な俳優がそうした人間臭さを発散させていたということもある。とにかく日本人はこの映画で初めてそうした人間的な暴力を見たといってもよい。

この映画のもう一つの重要な特徴は、戦後の混乱期を生きていた日本人の記録になっているということだ。前作「素晴らしき日曜日」でも、戦後の東京の焼け野原や闇市の様子が出てきていたが、この映画でも、闇市に群がる人々が、ものを求めて必死に生きているさまが映し出されている。だからこの映画を見た人たちは、映画の場面の中に自分自身の姿を見つけ出したり、また三船の見せる怒りの表情に、自分自身の怒りの感情を重ねあわせたりしたに違いない。

なにしろこの映画が公開されたのは昭和23年。戦争が終っていくらも経っていない時点だ。国民の殆どは戦争でひどい目にあわされ、その怒りをどこに向けていいかもわからない人が大勢いた。この映画はそうした人たちの怒りを、代って表現しているようなところもあるのだろう。これといって明確なテーマが見られず、ただただ怒りや暴力が描かれているにかかわらず、同時代の人々がこの映画に熱狂したといわれるのは、この映画に自分たちの怒りを癒す浄化作用のようなものがあったからではないか。

舞台は東京の片隅の活気ある闇市のある街、空襲で廃墟と化した建物があり、どぶのような水溜りがあって、その水溜りのほとりに真田(志村喬)という一人の医者が開業している。この医者は酒好きで自分自身を酔いどれ天使などと称して気取っているが、腕はいいらしい。この医者が映画の主人公だ。なお、この街はオープンセットとして作られたもので、現実の街を映したものではないということだ。

真田の所にある晩一人の男が駆け込んでくる。三船敏郎演じるヤクザ者の松永だ。喧嘩をして左手に銃弾をぶち込まれている。それを真田は抜いてやるのだが、麻酔もかけずピンセットで抜き出す。松永が痛みで悲鳴をあげると、ヤクザ者には麻酔などいらぬといって突き放す。すると松永は怒りに狂って恩人であるはずの真田に暴力を振るう。真田の方では暴力を振るわれて怒るわけでもない。かえって松永の実直な人柄が気に入ったふうなのである。

松永はこの闇市を縄張りにするやくざだ。真田はヤクザなどけだものだといいつつ、松永が結核にかかっているらしいことが気になり、なにかと松永の世話を焼く。松永のほうでは当初そのおせっかいを迷惑がっているが、そのうち自分が結核にかかっていることを知って、少しは心を入れ替えるそぶりを見せる。そこに一つの転機がやってくる。兄貴分のヤクザ岡田(山本礼三郎)が刑期を終えて出所してきたのだ。その登場シーンがなかなか凝っている。どぶのそばで夜ごとギターを弾いている男がいるのだが、いきなりその男からギターを取りあげて弾きだすのだ。男が曲名を訪ねると岡田は人殺しの歌だとこたえる。それが予兆となるかのように、岡田は松永を殺すことになるだろう。

岡田が帰ってきたおかげで、松永はなにかと岡田の風下に立たされるようになる。岡田は凶暴なことで誰からも恐れられているのだ。松永の情婦(小暮美千代)までが威勢のいい岡田の方へとなびいてしまう。その岡田と松永がキャバレーの中で盃を交し合う場面で、笠置シズ子が歌手役で登場してジャングル・ブギーを歌うシーンがある。笠置シズ子という女優はどちらかというと不美人なほうだが、独特の魅力があって、当時の人々に人気があった。この場面での彼女の身振り豊かな歌いぶりを聞くと、その訳がわかるような気になる。

岡田の羽振りに比べ、松永の方は結核が進行して次第に体力を消耗し岡田と渡り合うだけの力が湧いてこない。ついには真田の診療所に起伏して治療に専念しようとまで思うようにいたる。ところが治療に専念していられない事情が持ち上がった。

真田のところにはかつて岡田の情婦だった女(中北千枝子)が匿われていた。その女の行方を岡田は追い求めていたのだが、ついにありかを突き止められてしまう。恐れる女に対して、真田は警察に守ってもらおうと持ちかけるが、松永は警察など信用できんから、おれが話をつけてやると申し出る。親分格の男に相談して岡田を制御して貰おうと考えたのだが、その考えが甘いことを思い知らされる。親分の方でも松永を見捨てて、岡田の方を大事にしているのだ。

松永はついに縄張を取り上げられ、自分が孤立しているのを思い知る。そこで真田への恩義から自分の手で岡田を片付けようとする。かつての自分の情婦のアパートに押しかけ、岡田をナイフで刺そうとするのだ。しかし刺そうとして手を振り上げた瞬間大量の血を吐きだし、つい体制を崩してしまう。そこを岡田に付け入られて、自分の方が刺されてしまうのである。

この二人の決闘のシーンがすさまじいまでの迫力に満ちている。二人の姿が交互に画面いっぱいに映し出される。彼らの表情にはほとんど感情らしいものがない。どうしたら相手の攻撃をかわし、相手に致命的な打撃を与えられるか、そのことだけが彼らの心を捉えている。それは怒りの表情でもなく、ましてや恐怖の表情でもない。敢えていえば、獲物を狙う肉食獣のような表情だ。

二人は狭い空間を目いっぱいに動き回る。ナイフを持った方の岡田が無防備の松永を刺そうとする、松永は懸命に逃れて中々刺されない。そのうちペンキのカンを蹴飛ばして大量のペンキが床上に流れ出る。そのペンキに足を取られながら、二人の暗闘が続く。ついに岡田のナイフが松永の腹に食い込む。刺された松永はどっと倒れ、廊下の柵をバラバラに薙ぎ倒しながら、電線に引っかかった凧のように、空中にぶら下がる。

この場面で映画は展開して、ラストシーンへと切り替わる。松永は火葬されて骨になっている。彼の葬式を出したのは、かねてから松永に惚れていた女(千石規子)だ。その女を真田は慰めてやる。そこで患者の一人の少女(久我美子)がやってくる。携えてきたフィルムをみた真田は、少女に治癒を告げて、頑張った褒美にあんみつを御馳走してやろうという。酔いどれの天使ではあるが、職業上の良心は失わないでいる、そんなことをアピールする場面だろうか。

このようにこの映画は、一人の医者と一人のヤクザ者との、人間同士の心のふれあいみたいなものを描いているのだが、それにしては、テーマが曖昧だという印象を与える。医者とヤクザ者との接点は、結核という病気だったが、その病気が何故この医者をヤクザ者に接近させる動機となったのか。その辺があまりスッキリしない。であるから、彼らの間の関係をどうとらえたらよいのか、わからないところもある。しかしそれでもなお、映画としての迫力にあふれているのは、暴力や犯罪や怒りといったものが画面いっぱいに充満し、それが当時の社会を生きていた人々に他人ごとのように感じられなかったことが、この映画に独特の迫力を付与したのだと思う。

なお、この映画の主人公は志村喬演じる医者の酔いどれ天使だが、三船敏郎の演技が余りに迫力に富んでいるので、どちらが主演かわからないところがある。ともあれ、この映画によって三船敏郎は大俳優への一歩を踏み出したわけだ。




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