壺齋散人の 映画探検
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蜘蛛巣城:黒沢明の世界



黒沢明が「七人の侍」の三年後に公開した映画「蜘蛛巣城」は、よく知られているように、シェイクスピアの悲劇「マクベス」を下敷きにしている。マクベスがイギリスの太古の昔に実際に行われた王位簒奪の殺人劇を描いているのに対して、これは日本の戦国時代に行われた架空の主殺しの劇である、という点を除けば、かなり忠実に原作をなぞっている。マクベスにあたるのは戦国時代の武将鷲津武時(三船敏郎)であり、バンクォーにあたるのは彼の同僚三木義明(千秋実)であり、マクベス夫人に相当するのが武時の妻浅茅(山田五十鈴)である。そしてマクベスに予言した三人の魔女たちは、この映画では物の怪の妖婆(浪花千栄子)ということになっている。

シェイクスピアが描いた数多くの王権劇の中では、新しい王は古い王を殺すことで生まれ、自分自身が殺されることによって次の世代に王権を引き継ぐというプロセスが繰り返された。王権の継続は殺人の連鎖として実現されるわけである。その王権の担い手はだから、巨大な歴史の運命に翻弄される歯車のような印象を与える。彼らは自分の意思で王権を簒奪したというより、歴史によって運命として与えられた役割を淡々と実施しているようなのである。ところが、マクベスはそうではなかった。彼は運命に強制されてではなく、自分の意思で王権を簒奪したということになっている。たとえ妻のそそのかしということがあったとしても、最期には自分の意思に基づいて決断している。だが、簒奪した後で、手にしたものの重みに押しつぶされて自ら破滅を招いてしまう。そこが王権劇の中の王たちと違うところだ。王権劇の中の王たちも、自分を狙うものたちに対して不安を覚えたりするが、それは命を失うことに対する不安であって、自分が犯した行為に対する罪の意識ではない。ところがマクベスは、その罪の意識にさいなまれる。その点で、彼は非常に反省的な人間なのである。王権劇の王たちは決して反省などはしない。

蜘蛛巣城の鷲津武時も、マクベスの以上のような性格をほぼ忠実に受け継いでいる。彼は迷信深い人間であり、物の怪の予言をすっかり信じてしまい、また妻のそそのかしにも乗ってしまうような弱い人間としての一面を持っているが、主殺しの行為は自分の決断に基づいて行う。しかしそうやって折角奪った王権に対して、常に後ろめたい感情を持ち続ける。彼は自分に後継ぎのいないことから、三木義明の子供を養子に迎えようとするのだが、それは三木の子供が鷲津のあとの蜘蛛巣城主になるだろうとの物の怪の予言を信じてもいるからだ。自分自身で王権を譲ってやれば、自分が殺されることはあるまいと、思ったのだろう。そこがマクベスとは少し違うところだ。マクベスはそんな甘い考えは持たない。彼は自分が力づくで奪った王権を、自分から手放そうなどとはツユにも考えない。

マクベスは、自分の地位を脅かす可能性のあるものは手当たり次第に殺していく。友人のバンクォーは真っ先に殺さねばならない人物だ。ところが鷲津は三木を頼もしい同僚として信頼するような弱さをもっている。その弱さが彼にさまざまな幻覚をもたらす。彼も、妻の浅茅も、この幻覚によって自滅するのだ。

この映画にはいくつか見どころがある。ひとつは様式的な美である。それを黒沢は、能を取り入れることによって表現した。主殺しを巡って、鷲津と妻の浅茅が開かずの間で問答する場面は、まさに能の舞台を見ているような感がある。浅茅の表情はまさに能面をかぶっているかのようだし、すり足で歩いたり、ゆったりと腰を落したり、かというといきなり急角度で首を動かしたりと、能の仕草を意識的に取り入れている。床を蹴りながら歩くといった鷲津の動きも、能役者の動きを思わせる。音楽にも能の囃子を取り入れている。二人はあまり言葉を発しないが、仕草自体が言葉よりも雄弁なのだ。

能を取り入れたことについては、黒沢自身が次のように言っている。「全編を通じて能の形式を生かすために、うんと劇的に盛り上がるところでも、役者のアップの表情をあまり見せないようにして、なるべくロングのフル・ショットで見せるようにしたわけだ。だいたい能は全身の動作でもって感情を表すものなんだからね」(キネマ旬報昭和38年四月増刊号、佐藤忠男「黒沢明の世界」から孫引)

能だけではない。冒頭で流れる音楽は声名(しょうみょう)のようだし、宴会の席で家臣が演じる舞は、能の仕舞ではなく、どうやら幸若舞のようでもある。

次いで、映像に独特の美しさがある。この映画では霧が効果的に使われていて、それが幻想的な雰囲気を醸し出している。冒頭のシーンから始まって、鷲津と三木が森の中で堂々巡りをするシーン、森が動きながら城に近づいてくるシーン、そして最後のシーンなど、節目節目で霧が現れる。それが映像を効果的に美しくしているのみならず、画面の動きに独特のリズムを与えている。特に森の中のシーンなどは、言葉がなく、ただ馬に乗った人間を延々と映し出すだけなので、やり方如何ではリズムが崩れてだいなしになるところを、ここではかえって独特なリズム感を演出できている

戦闘集団の映し方も秀逸だといえる。「七人の侍」では、馬賊と百姓たちが体をぶっつけあうようにして戦う場面が迫力を感じさせたが、この映画では、膨大な数の人間からなる戦闘集団が壮大に描かれている。ただの戦いではなく戦争なのだ、ということを感じさせる。

三船敏郎と山田五十鈴の演技も迫力満点だ。山田が能の動きを意識的に取り入れているのに対して、三船の方は目の動きや身体の動作を大袈裟にすることで、独特の効果を出すことに成功している。この映画は、心理劇としての性格を持っているのだが、その心の動きが、目や身体の動きを通じて伝わってくるようになっている。

とくに最後の場面で、三船演じる鷲津が、ほかならぬ配下の武将たちによって殺されるシーンは秀逸だ。自分の運命を見透かされた鷲津が配下のものから見捨てられ、弓を射られる。この思いがけない仕業に、鷲津は目で応える。その目の動きが彼の無念さを強くあらわしている。

この映画は、三船敏郎の目の動きによって表現された部分が非常に大きなウェイトを占めている。だからこの作品は「目のパントマイム」といってもよい。




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