壺齋散人の 映画探検
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悪い奴ほどよく眠る:黒沢明の世界



「悪い奴ほどよく眠る」は、ある意味黒沢明の黒沢らしさが凝縮された映画だといえよう。「姿三四郎」に始まり「隠し砦の三悪人」でひとつの頂点に達した男のヒロイズムへの拘りと、黒沢独特の正義感とが、この作品で見事に融合し、何ともいえない雰囲気を醸し出している。こんな映画は、これ以前にはなかった。公開当時には強大な悪を暴く社会派映画だというような批評が多かったようだが、これは単純な社会派映画ではない。むしろ一人の男の生き方に焦点を当てた物語映画だ。

社会派映画だという評判が立ったのは、この映画が社会悪を対象にしていたことにもよる。その社会悪とは巨大な汚職だ。戦後日本では政治家や役人たちによる巨大汚職事件が頻発したが、本物の悪党はなかなかつかまらないで、下っ端の小役人が身代りに自殺することで幕引きが図られる、というようなことが続いた。そうした風潮に対して黒沢は黒沢なりに反応したというのが、この映画のとりあえずの動機である。映画の中では、身代りに自殺した小役人の息子が、かつて父親の上司であり、いままた新たな汚職を働いている連中を相手に復讐を企てる、しかし結局巨大な悪の勢力の前では、いかに腕力の強い男でもかなわない、逆に返り討ちにあってあっけなく殺されてしまう、というのがこの映画の筋である。

映画は、悪に立ち向かう男の戦いぶりに焦点を当てている。巨大な悪を相手にするわけだから、並大抵なことではかなわない、当然知力と腕力が物をいう。その知力と腕力を兼ね備えた一人の男が、スーパーヒーローとして巨悪に立ち向かう、というのがこの映画の見どころだ。したがってこの映画は、社会派映画には違いないが、それ以上にサスペンス・アクション映画なのだと言える。

だが、こちこちのハード・ボイルドというわけでもない。主人公の男(三船敏郎)は、人間的な弱さも持っている。その弱さが相手に隙を与え、それがもとで殺されてしまうわけであるが、本物のハード・ボイルド映画では主人公はそんなマヌケとしては描かれない。また、登場人物のなかには人間的な感情をもった男も出てきて、復讐心に燃える主人公のゆがんだ気持ちをどうかして治してやりたいと思ったりする。結局はその老婆心があだとなって主人公は殺される羽目になるのだが、しかし映画はそのことでその男を責めてはいない。こんなところも、本物のハード・ボイルドではありえないところだ。

筋書きにも大分無理なところがある。汚職事件の犠牲となった男の息子が、友人と戸籍を交換して別人になりすまし、父親の仇に接近したうえで、まんまとその娘と結婚する。そうして相手の懐に入り込んだうえで、復讐の機会を淡々と狙う。敵は新たな汚職事件を起こし、それをマスコミが嗅ぎ付けている。こうした状況の中で、主人公は汚職にかかわっている人間たちを追いつめていくわけであるが、その過程で、人間的な弱さがあだとなって、敵の手に落ちてしまう。その人間的な弱さとは、敵の娘を愛してしまうことであったり、いざと言う場面で完璧に残酷になれないことであったりする。現実にはこんなことは起こり得ないだろう。復讐するために敵の懐に飛び込むというのは分からないではないが、しかし敵の娘と結婚し、ついにはその娘の愛を受け入れるというようなことは、いくらなんでも荒唐無稽の部類に属する。

だが黒沢は、そうした荒唐無稽さにあまりこだわってはいないようである。「隠し砦の三悪人」でもそうだったが、大筋が通っていれば、細かい部分の不都合はあまり問題にならないのだ。

映画はその主人公の男西(三船敏郎)と主要な敵岩淵(森雅之)の娘佳子(香川京子)との結婚式の場面から始まる。式場には新聞記者たちが押しかけ、警察までやってくる。汚職事件が進行中だということがアナウンスされるわけである。併せて、結婚式上のスピーチを通じて、登場人物たちの相関関係が紹介される。中々洒落た演出というべきである。結婚式場には、汚職の材料になった建物の模型をかたどったウェディングケーキが運び込まれ、汚職の当事者たちをびっくりさせる。その顔を復讐の鬼となった西が顔色一つ変えないで見ている。その表情からは、復讐への強烈な意思が読み取れる。

映画の前半では、西が敵方を追い詰めていく過程が描かれる。標的はまず契約課長白井(西村晃)だ。西は、自分の父親と同じように自殺を図った契約課の課長補佐和田(藤原釜足)を救い、彼を巻き込んで復讐のパートナーにする。その復讐の最初のターゲットが白井なのだ。白井はこの復讐にさらされて理性を失い、ついには発狂してしまう。それに至るプロセスが、実に丁寧に描かれている。

仇の岩淵は何者かが自分たちを付け狙っていると感じるようになり、管理部長の守山(志村喬)に、過去に自殺した小役人の係累を調べさせる。自分たちを付け狙う人間がいるとしたら、この小役人に係わりがある人間だろうと検討をつけたわけだが、思いがけないことに、西がその小役人の息子だということがわかってしまう。

こうして映画は後半に突入し、復讐劇は正面衝突の形をとる。西は親友の板倉(加藤武)と共に、守山を廃墟の一角に監禁したうえで、守山の口から汚職事件の全貌を聞きだし、それを新聞記者の前で暴露するという戦略を立てるのだ。この板倉というのは、西と戸籍を交換した相手だ。

こうして行き詰まるやりとりが続けられるが、そのうちに和田が西の妻佳子を監禁現場に連れてくる。西たちのやり方を見て心を痛めた和田は、佳子の力を借りて、西に改心して欲しかったのだ。しかしこれが結果的にあだとなった。佳子を通じて西の所在を突き止めた岩淵は、殺し屋を雇って西を殺してしまうのである。こうして映画はあっけなく終了する。

ラストシーンは、記者たちを前に西の死について発表する岩淵を映し出す。岩淵は、西が有能な部下であり、また娘にとってはよき夫だったと語り、その死因は酔っ払い運転による事故だったと残念そうに語る。西は殺し屋たちに襲われた後、アルコールを静脈に注射され、意識のないまま車に乗せられて、列車に激突させられたのである。

その言葉を聞いた記者たちが、西は死の直前に記者会見を開きたいと言ってきたが、それはどう考えてよいのかと質問をぶつける。岩淵は一瞬たじろぐ様子を見せるが、すぐに気を取り直し、話題を巧妙に避ける。こうして、とりあえず汚職の追及を逃れてほっとした岩淵に、何者かから電話がかかってくる。その電話の相手に向って、岩淵は最敬礼で受け答えする。その相手こそが、岩淵の背後にいる本当の黒幕なのだろう。その黒幕に最敬礼する岩淵に重ねるように、「悪い奴ほどよく眠る」のタイトルが現れる。このあたりに、不正を憎み正義にこだわる黒沢の面目が現れている。

なお、結果的に夫を死にやった佳子は、最後に発狂する。自分のした行為の意味に耐えられなかったのである。ここにもうひとり汚職事件の犠牲者がいた、悪い奴が安心して眠れるのは、そうした人たちの犠牲があるからだ、というわけだろう。

なお、この映画では、クライマックスともいうべき西の死を直接に描かず、板倉の推測という形で語らせているが、それが効果的だったように思う。監禁現場にやってきた佳子と兄の辰夫(三橋達也)を前に板倉が西の死の様子を語るわけだが、そうすることで、悪の前に正義が空しく敗れた意味がひしひしと伝わって来るし、それを聞かされた佳子が呵責に耐えられなくなった意味も納得できる。達也は発狂した妹を連れて父の前に現れ、親子の縁を切ると宣言する。それが悪に対するせめてもの罰だといわんばかりに。とはいっても、究極の悪は快い眠りを貪っているわけだが。




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