壺齋散人の 映画探検
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椿三十郎:黒沢明の世界



「椿三十郎」は「用心棒」の続編のような体裁をとっている。「用心棒」で桑畑三十郎と名乗っていた放浪の素浪人が、ここでは椿三郎と名乗って、荒唐無稽な大活躍をするというものである。暴力の描き方では「用心棒」よりおとなしいように感じられるが、三十郎が数十秒の間に30人もの侍を叩き切ったり、最後の決闘のシーンで切られた男の心臓から大量の血しぶきが迸ったりするところなど、見せ場にはこと欠かない。

この映画の原作は山本周五郎の小説「日々平安」である。黒沢はこの小説をもとに、他の映画監督のために脚本を書いてやった。ところが、前作の「用心棒」の成功に気を良くした東宝が、その脚本を観客受けするように書きなおし、黒沢自身が監督することを要求した。原作に比較的に忠実に書いたその脚本の主人公は、気が弱く腕も立たない侍として描かれていたのだったが、黒沢はそれを「用心棒」の桑畑三十郎と同一人物の、腕っ節が強く正義感も十人前のスーパーヒーローに作り直したのだった。

基本的な筋書きは、藩内の派閥争いである。城代家老と対立する次席家老の一派が、城代家老を誘拐の上監禁して、自分たちで藩の実権を握ろうと企む。それに感づいた城代家老側の若者(加山雄三以下9人)たちが、なんとかして城代家老を救出し、敵側の陰謀を暴こうとする。それに旅の素浪人椿三十郎(三船敏郎)が味方して、天下無敵の活躍ぶりを発揮し、ついに敵を打ち負かすという、他愛ないものである。

他愛ないという点では、三十郎が若者たちに加勢する動機からして他愛ない。神社らしい御堂のなかで9人の若者たちが謀議する様子を、奥の方で聞いていた三十郎が、やおらあくびをしながら出てきて、若者たちの謀議の未熟さを指摘し、話の内容からすると、お前たちはこれから敵側によって襲われるだろうと予言する。その予言通り、敵方の侍数十名が神社に押しかけてくる。それらを追い払った三十郎は、お前たちが心配になったから、俺が加勢しようと申し出る。何故彼が加勢する気になったのか。そんなことはどうでもよい。とにかく話が面白くなるように展開していくことが大事なのだ。そうした観客サービス精神が、この映画を貫いているのである。

最初の見せ場は、城代家老の妻子を救出するところである。入江たか子演じる家老の妻は、どんな窮地にあっても取り乱すことがない。かえって、自分を救出した三十郎を、無闇に人を切ってはいけないなどと説教する始末だ。その妻から名前を聞かれた三十郎は、身を寄せた屋敷に咲いている椿の花を見やりながら、椿三十郎だと答える。もうすぐ四十郎になると付け加えるところは、桑畑三十郎の場合と同様である。

次の見せ場は、敵方につかまって拘束された若侍たちを救うために、敵方の侍たち数十人をあっというまに切り殺す場面である。この場面は、わずか40秒の間に30人を切るという設定になっていて、三十郎はそれこそダンスをしているかのように身を躍らせ、次から次へと人を切っていく。その迫力たるやすさまじいものだ。これだけの迫力を出すために40人を動員してカット撮影を行い、それらをもとにモンタージュ編集を施したということだ。

敵方の侍を殺し尽くした後、三十郎は若者たちに自分を縄で縛らせる。敵を欺くためだ。そこへ、敵方の司令官室戸半兵衛(仲代達也)が戻って来る。半兵衛は三十郎にすっかり惚れ込んでしまっており、味方の惨状を見ても、三十郎を疑おうとはしないのだ。

この次の見せ場は、敵方の司令部を突き止めた三十郎たちが、そこに監禁されている城代家老を救出するところだ。その司令部とは、こともあろうに三十郎たちが隠れている屋敷の隣りにある屋敷なのだ。

まず、三十郎が一人で敵方に乗り込み、城代家老側の勢力があるところに集結していると虚言を吐いて、敵方の勢力をそこへ向かわせる。そして、その間に若者たちを乗り込ませて、家老を救出しようという算段をたてる。事態はだいたい狙い通りに進んで、三十郎が若者たちへの合図を送ろうとする、ところがそこを仲代達也によって見とがめられる。

「用心棒」では、同じ仲代達也が演じる敵方の男によって正体を見破られた三十郎が、ひどい拷問を受ける場面が続くのだが、この映画では、そうした拷問の場面は出てこない。三十郎は縄で縛られたまま放置されるだけだ。縛られて動けない三十郎は、一計を弄して次席家老たちを騙し、若者たちへの合図をするように取り計らう。それが功を奏して若者たちが屋敷内に侵入して、めでたく解決に至るというわけなのである。

こんなわけでこの映画は、荒唐無稽と言ってよいような、奇想天外な、どんでんがえしの連続からなる。

最後の見せ場は、三十郎と半兵衛の決闘だ。半兵衛に友情を感じる三十郎は、殺し合いはやめようというのだが、半兵衛の方では、お前にコケにされたと言っていうことを聞かない。そこで決闘と相成る。

この決闘シーンは、映画史上でも有名なものだ。二人が近づきあい、にらみ合ったまま、抜刀の機会を狙う。その瞬間がやって来る。三十郎の剣が半兵衛の胸をなで斬りにする。すると半兵衛の心臓から、血しぶきが噴水のように迸り出てくる。

このシーンは、ポンプを用いて撮影したのだそうだ。仲代達也の着物の中にポンプを潜ませ、胸のあたりから色のついた水を勢いよく噴出させたというわけである。モンタージュがうまくいって、かなりなリアリティを感じさせるが、果して人の心臓からこんなに勢いよく血が噴き出すものか、当時も議論を呼んだということだ。

しかし、映画にとってリアリティは二義的な意義しか持たない。一義的なのは、それが人を楽しませるに値するかどうかということだ。そう考えれば、こうしたシーンにもそれなりの楽しみ方があるということになる。




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