壺齋散人の 映画探検
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わが青春に悔なし:黒澤明



「わが青春に悔なし」は、黒澤明の戦後第一作だ。敗戦の翌年1946年の10月に公開された。そんなこともあって、占領軍への配慮がにじんでいる。黒澤の戦後第一作は、本来なら「虎の尾を踏む男たち」のはずだったが、この映画は封建的な人間関係を礼賛しているところが占領軍の検閲に引っかかることを恐れた東宝が、公開を自主規制した。そのかわりに黒澤に作らせたのが、この「わが青春に悔なし」で、これは当時占領軍の検閲の基準になっていた民主主義の振興という項目に大いに合致していると、考えられたのである。

もっとも黒澤自身、この映画に民主主義の精神を盛り込みたかったのかどうか、それはあまり明確ではない。この映画は、一人の女性の自立した生き方を通じて、人間の自由と平等そして博愛を描いたとい点では占領軍のかざしていた民主主義の精神に合致するように見えなくもないが、しかし原節子に演じさせている女性の生き方には、民主主義の高揚感は感じられない。むしろしらけた感じが伝わってくる。そういうところを見せられると、黒澤はどうも半ばはいやいやながらこの映画を作ったのではないかと勘繰りたくもなる。

黒澤はもともと女性の生き方には関心がなかったようで、この映画以外で女性が主人公になる映画は作っていない。しかも黒澤の描く女たちはどれもみな似たようなもので、「蜘蛛の巣城」や「どん底」に出て来た山田五十鈴を別にすれば、あまり存在感を感じさせないものばかりだ。ところがこの映画の中の原節子は、存在感を感じさせるばかりか、かなり飛んでる印象を与える。われこそ新時代に現れた新しい女の典型です、と叫んでいるようなところがある。しかしその叫び方にぎごちなさがあるので、見ている方としては、かなりな違和感を受ける。この女性は所詮作り物で、真実性に欠けているというわけである。

原節子にとっては、この映画は戦後の最初のヒット作となった。彼女は戦前・戦中期から日本映画を代表する女優の一人になっていたが、演技の幅は狭かった。というより大根女優といったほうがよかったのではないか。それがこの映画を通じて一皮むけ、大女優への道を歩みだすこととなった。前半では好奇心豊かな令嬢を演じ、後半では自分の信念に従って世の中の不正に敢然と立ち向かう、というこの映画の中の役柄は、他の女優にはなかなかむつかしい役だったに違いない。それを彼女はそつなく演じている。彼女には清純派的なところと、性格派的なところが混在していて、それがこの映画のなかではバランスよく発揮されていると言えるのではないか。

冒頭の字幕を通して、この映画は戦前の京大事件をヒントにしているが、内容はあくまでも作者の創作だと断っている。京大事件というのは、学者に対する弾圧事件としてメルクマールとなるような大きな事件だった。権力による思想・言論の弾圧として日本軍国主義を象徴する事件だ。映画はこの事件にからめて、学生運動や左翼運動を描いているわけだが、京大事件の本筋とはほとんどかかわりがない。そのかかわりのないところで黒澤は、自由を求めて戦う男女、とくに原節子演じるところの若い女性の生き方に焦点を当てるのである。しかしその焦点の当て方が多少ずれていて、いったい何を言いたいのかわからぬところも多い。

原が惚れた男というのは、反政府運動にかかわっているということになっているが、それがどんな内容なのか映画からはほとんどわからない。我々の運動は十年後になればその意義が明らかになるなどと男を演じる藤田勇に言わせているが、その運動がどんなものなのか映画はほとんど何も言わないのだ。だから、藤田のやっていることは無論、原がそれにどのようにかかわっているのかも、まったくわからない。わかってくるのは原のほうから藤田に惚れたということだけだ。それだけのことならなにも反政府運動などと言う大げさな設定は必要なかろうとも思われるのだが、そこはやはり映画界として、占領軍にいい顔をしたかったということなのだろう。

ところで原が藤田に寄せる思いにはかなり屈折したところがある。彼女はあなたを愛していると素直に言えないで、いつももじもじしている。時たま正直に気持ちをあらわす時は、なかば狂乱状態にある。その狂乱状態で男に迫るわけであるから、そこにはあやしい迫力が感じられる。原の顔は思い詰めたような表情を呈するときには、すさまじい迫力を醸し出すのである。顔だけではなく、体全体で自分の意思を表現しようとする。大柄な身体で、胸をゆさゆさ揺らしながら自己表現するところはなかなかの圧巻だ。

後半の、男の実家で嫁としての自覚からけなげに振る舞うところなどは、どう受け取ったらよいのか迷うところがある。男の両親は、死んだ息子のためにいつまでも義理立てされることに恐縮するのだが、原のほうではそうした相手の気持ちはどこ吹く風、嫁としての自分の立場を押し付けるようなところがある。押しかけ女房ならぬ押しかけ嫁というわけだが、押しかけ嫁など聞いたこともないというのが、当時の観客の感想だったのではないか。こうした嫁舅の封建的な人間関係をよしとするようなところがこの映画にもある。もっともそれが占領軍によって問題とされることはなかったようだ。

原の相手役に藤田を持ってきたのはどういうつもりか。藤田は恋愛ドラマの役柄には似合わないのではないか。藤田の笑う顔は色男の顔ではない。一方、京大教授を演じた大河内伝次郎は、なかなか渋いところを感じさせた。




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