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溝口健二「祇園の姉妹」:日本女の生き方



溝口健二は生涯にわたって、男に踏みつけにされながらも健気に生きていく女たちを描き続けたが、その作風にとってターニングポイントとなったのが、「浪華悲歌」とこの「祇園の姉妹」である。溝口は、浪華悲歌では、父や兄の犠牲となって身を崩していく一人の少女をリアルに描いたのだったが、この作品では、祇園の芸妓姉妹の生きざまを描いている。芸妓であるから、もとより男の弄びものには違いないが、それでもやはり人間であることにも違いはない。では、芸妓でありながら人間らしく生きるのは不可能ごとなのか。そんな思いを込めて、溝口はこの映画の中でも、男に翻弄される女たちの生き方を描いているのである。

主人公は、祇園の芸妓である梅吉(梅村蓉子)、おもちゃ(山田五十鈴)の姉妹。彼女らは、芸妓のうちでも格下らしく、しがない暮らしをしている。姉の方はそんな境遇に満足しているが、妹の方は満足しない。金持ちの旦那を見つけて、何一つ不自由のない楽な生活がしてみたい。つまらぬ男の言いなりになって、あくせくするのはまっぴらだ。男なんてワテらの敵やさかい、そいつらをだまして金を巻き上げるのは理に適っている、と女学校出の知恵を働かせながら言うのである。そんな妹を姉は、そんなこというたら世間に顔向けでけへん、と諌めるのだが、妹の方は、世間がワテらを人間らしく扱うてくれたか、といって反発するのである。

姉には馴染みの旦那、古沢(志賀迺家辨慶)がいるのだが、その旦那の店が倒産する。この映画は、倒産した店が売りに出され、商品が競売にかけられるシーンから始まるのだ。倒産した責任を女房から追及され、さんざん罵られた古沢は、腹を立てて家を飛び出し、姉妹の住んでいる家に居候にやってくる。そんな古沢を姉の方は受け入れるのだが、妹の方はとんでもないことだと思う。そこで女だてらに知恵を絞って一計を弄する。この落ちぶれ旦那を適当に追い出して、もっと甲斐性のある旦那を姉に世話しようというのだ。

妹は自分のところに足しげく通ってくる呉服屋の番頭をたぶらかして、上等の着物を姉のために拵える。それでもって姉の値打ちを上げようというのだ。一方、古沢の昔馴染みである骨董屋をたぶらかして、金を出させ、その金の一部を古沢にやって、この路銀をもってどこへなりと行ってくれという。それが姉の意思だと聞かされた古沢は、仕方なく出ていく。古沢が居なくなったことを知った姉は、古沢のことを水臭いと言うのだが、そんな姉のところに、骨董屋が口説きにやって来たりする。

一方、番頭が商品を横流ししていることを察した呉服屋の主人(新藤栄太郎)が、姉妹の家に乗り込んでくる。しかし応対に出たおもちゃの色仕掛けにあって、すっかり鼻の下を長くしてしまう。ミイラ取りがミイラになったというやつだ。この場面が非常に面白い。おもちゃは、呉服屋に向かって「おぶーを、さしあげます」といいながら、ちゃぶ台のところに尻を持って行って、呉服屋を差し招く。そしてビールの栓をスポンと抜く。すっかりうれしくなった呉服屋は、そもそもの用事のことなどすっかり忘れて、おもちゃの色仕掛けに夢中になってしまう。

この場面では、「おぶー」とは飲み物と云う意味で使われているらしい。しかし、違う場面では、姉の梅吉が男に向かって「ぶぶ」といいながらお茶を差しだしている。この「ぶぶ」なら、東京地方の若い人も、今でも言っているのではないか。

さて、おもちゃは呉服屋をたぶらかして、まんまと自分の旦那になってもらう。洒落た服を着て、小遣にも不自由しなくなる。男をだましていい生活をするのが女の甲斐性だとするおもちゃの信念が順調に実現しつつあるようだ。

しかし、順調に進んでいた歯車の動きが、ちょっとしたことで狂いだす。品物を横流ししていたことで主人から謹慎を命じられていた呉服屋の番頭が、おもちゃに会いたくなって、姉妹の家に訪ねてくるのだ。その途中、かつて古沢の店の番頭だった男と出会い、古沢がいまでは番頭のやっている店に居候をしていることを聞かされ、そのことを梅吉に話す。びっくりした梅吉は、番頭を残して一人飛び出して行ってしまう。そこへ、おもちゃを連れた呉服屋がやってきて、番頭を厳しくなじり、クビだと云い渡す。そこで、腹を立てた番頭は、呉服屋の女房に旦那の浮気をあらいざらい暴露するとともに、おもちゃにも復讐してやろうと考えるのである。

なお、番頭が主人の不始末を女房に言いつけるのは、この主人が婿養子だということを暗示しているのだろう。倒産した木綿問屋の古沢もやはり婿養子だった。彼は養子としての責任が果せなかったために、家を出て梅吉の世話になるしか道がなかったわけだ。

画面が飛んで、おもちゃのもとに一人の男が訪ねてくる。御座敷から声がかかったので、迎えに来たというのだ。すっかり信用したおもちゃは、ちょっと待っておくれやす、といって鏡を前に身支度をする。その化粧をするシーンが何ともいえず色気がある。この映画のなかでもっとも印象に残るシーンだ。鏡を覗き込みながら、鬘を被り、鬢のあたりを櫛の先で整えるところなどは、日本の女の色気を集約したような感じをさせる。この演技をしたときの山田五十鈴はまだ二十歳になっていなかったのだが、それでもこれだけの色気を感じさせるというのはたいしたものだ。もっとも、この時に彼女は既に出産の経験があったそうだから、今日の女性とは比較できないかもしれないが。

車に乗せられるやいなや、おもちゃは騙されていることを思い知る。車は座敷があるという方向とは別の方向を目指して走っているからだ。そのうち、一人の男が助手席から顔を出しておもちゃを罵る。その男とは、おもちゃに食い物にされた呉服屋の番頭だ。

場面は飛んで、姉の梅吉の所に、おもちゃが大けがをして病院に担ぎ込まれたという知らせが入る。姉が病院に駆けつけてみると、処置が終わったところらしく、おもちゃが看護婦におんぶされて現れる。おもちゃは、なんでこんな目にあわされなあかんね、といってさかんに叫んでいる。男たちにタクシーの外へ放り出され、大怪我をさせられたというのだ。そんなおもちゃに、梅吉はいい加減にせいといって諭すのだが、おもちゃは「ワテはこんなことくらいで男に負けてへん」といって強がるのだ。

おもちゃは、男からこっぴどい目に合わされたわけだが、姉の梅吉の方も男(古沢)に捨てられる。義絶された女房から許してもらったのだ。こんな次第で、この姉妹は二人揃って男からひどい目に合わされるわけである。それでも姉の方は、男をうらもうとはしない。そんな姉を妹はふがいないと思う。姉は世間体を気にするが、妹の方は、世間がいったい何してくれた、というわけだ。

この映画のラストシーンは、浪華悲歌とは違って、山田五十鈴は颯爽と歩いてはいないが、それは怪我をして歩けないからだ。怪我が治って歩けるようになったら、きっと颯爽と歩いて男どもを見下してやる。そんな心意気が、山田五十鈴の表情からは伝わってくる。

なおこの映画は、現在見られるバージョンでは69分という長さであるが、本来は90分以上あったそうだ。どの部分が脱落したのかについては良くわからぬが、大筋は貫かれているようである。現在のバージョンでも十分鑑賞に耐える。



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