壺齋散人の 映画探検
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溝口健二「新・平家物語」:吉川英治の小説の映画化



溝口健二の晩年(1955年)の映画「新・平家物語」は、戦後の大ベストセラーとなった吉川英治の歴史小説をもとに、大映が企画した連作映画の第一作として作られた。大映は、1953年に衣笠貞之助に作らせた「地獄門」が大ヒットしたので、二匹目の泥鰌を狙っていたフシがあったが、溝口のほうも、「地獄門」の成功を横目に見て、それに匹敵するような歴史物を作ろうと意気込んでいたようである。しかしこの映画の最大の目的は、興行的な成功にあったので、溝口もそれに捉われるあまり、前後の優れた作品と比べれば、芸術的香気に劣る作品になったことは否めない。

筆者は吉川の小説を読んでいないので、原「平家物語」を念頭に置きながらこの映画を見たが、だいぶ異なって脚色されている。たとえば、忠盛が殿上人に抜擢されたのは、「平家物語」では、鳥羽上皇のために寺院を寄進した褒美ということになっているが、この映画では、加賀の白山寺の悪僧たちを鎮圧した恩賞ということにされているし、忠盛昇殿後に起きたいわゆる「殿上の闇討ち」についても、「平家物語」とはだいぶ違う筋書きになっている。「平家物語」では、忠盛が帯刀したうえで、家臣を従侍させたことに敵方の貴族らがおじけづいたということになっているが、映画では清盛が父親の危機を救うことにされている、といった具合だ。

この映画の重点は、若き日の清盛を描くことにある。「平家物語」は、清盛若年のことにはほとんど触れていないが、この映画では、虚実とりまぜて若き日の清盛を理想化しすぎているきらいがあるようだ。この映画によれば、忠盛が出世したについては息子の清盛が大いに貢献しているかのようになっているが、それが史実と一致するのか、確証はない。その清盛については、実は白河上皇の落とし種であったというような巷説が清盛在世中からあったとも言われ、平家物語もそれを踏まえて、巻第六の「祇園女御」の章で、忠盛が白河法皇から女御を賜ったが、その女御は既に妊娠していて、後に男子を産んだが、それが清盛だというようなことを言っている。映画はそれを最大限に利用して、清盛が自分の出生の秘密について悩むというふうに脚色している。

清盛は武勇に秀でているばかりでなく、恋多き男としても描かれている。映画の中で清盛の心を射止めるのは、藤原氏の末流たる貧乏貴族の娘時子であるが、史実としては、時子は平氏の一門である平時信の娘であり、清盛は初婚ではなく再婚だった。もっとも正室は既に死んでいたので、時子は継室ということになる。

映画の中で、清盛の前に立ちはだかるのは比叡山の悪僧たちである。比叡山の悪僧たちは、清盛と対立する前から乱暴狼藉の限りをつくし、都の人々の怨嗟の的になっていたのであるが、つまらぬことから平家の侍に喧嘩を売り、清盛と全面的に対立する仕儀となる。映画のクライマックスは、気勢を上げて迫ってくる悪僧たちを、清盛がいかに退治するかを描くところにある。

その悪僧たちが、松明をかざしながら叡山の山中を行進する場面は迫力満点である。日本の映画史上、これだけの迫力あるシーンは過去に例がなかっただろう。この映画にかける大映の意気込みが伝わってくるようである。

面白いのは、清盛が悪僧たちを撃退する方法だ。清盛はいきり立つ悪僧たちと正面から武力衝突するのではなく、単身同然の有様で悪僧たちと対面し、悪僧たちが担いでいる神輿の印を、弓矢で射落とすのだ。その印とは風見鶏と鏡である。これらには比叡山の神威が宿っていると信じられているので、それを打ち落とされた悪僧たちは、真っ青になって総崩れする。神威に見放されたからには、もはや蟄居するほかはないのである。

こんな具合で、この映画は清盛の若き日に焦点を当てて、武士階級が貴族にかわって台頭してゆくさまを描いている。清盛に象徴される武士階級の勢いの前では、清盛の生母といえども反動の徒でしかありえない。映画のラストシーンは、貴族と戯れる生母を苦々しく見ながら、今に見ておれ、これからは俺の時代だ、とうそぶく清盛を写す場面だ。

清盛を演じた市川雷蔵は、この映画が出世作となった。また清盛の生母を演じた小暮美千代は、得意の悪女役が冴えて、清盛以上に生き生きとした印象を振りまいている。

なお、この映画は日本でこそ大衆向けの戯作扱いされたが、海外では評判がよく、特にフランスのヌーヴェルヴァーグの作家たちには高く評価された。



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