壺齋散人の 映画探検
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稲妻:成瀬巳喜男の世界



成瀬巳喜男が「めし」の中で描いて見せたのは、明確な意思を持たず、あるいは持っていてもそれを表現することが苦手で、受動的に流されるままに生きている日本人だった。そんな日本人は今では少なくなりつつあるが、でも全くいなくなったわけではないし、そうした人間を実際に目の前にすると、そんな人間がいても不思議ではないという気にさせられる。というのも、そういう人間たちは、ついこの前までの日本には大勢いたのだから。成瀬の映画が根強い人気をもっているのも、こんな事情があるからだろう。

「稲妻」という作品でも、成瀬は意思の弱い人間を繰り返し描くとともに、意思は持っていてもそれをまともに制御できず、だらだらと流されていく人間をも描いた。この作品は、種違いの四人兄弟(姉妹)とその母親の生きざまを描いているのだが、末の妹を除いた他の人物たちには、自分が生きている意味さえわかっていないのではないかといった、盲目的なところを感じさせられる。その盲目的なところを、末娘の目を通して描きながら、生きることの意義ってなんなのかを、ふと感じさせてくれるというわけなのである。

映画の最初のところで、末娘(高峰秀子)が母親(浦辺粂子)に向かって話しかけるシーンがある。この母親は男運が悪かったらしく、産んだ四人の子供の父親はそれぞれ皆違うのである。そこのところを末娘が取り上げて、「お母ちゃんはね、四人もの人と結婚したんでしょ、幸福だった、それで?」という。すると母親は「幸福だなんて、そんなハイカラなこと」と答えるのだ。

この母親にとっては、幸福というようなハイカラなことは、日々生きていくこととは無縁なのだ。そんな母親を見ていると、末娘は断絶を感じざるを得ないのだが、だからといって、母親を馬鹿にすることもできない。しかし、いずれはその断絶感が彼女を駆り立てて家を飛び出させてしまうのであるが。

こうしたわけで、この映画には、高峰秀子演じる末娘の覚めた視線があるために、「めし」におけるような無自覚一辺倒な物語展開には陥ってはいないといえる。

高峰秀子演じる末娘は東京の観光バスのガイドをしていることになっている。東京の観光バスといえばハトバスのことだろう。車体にはハトバスとは書かれていないが、東京中央郵便局前が発着ステーションになっているから、ハトバスに違いなかろう。ハトバスは今も昔も東京駅丸の内南口の高架下が営業拠点なのだ。何故そうなのか、筆者にはいまだにわからぬが。

この映画は1952年の公開だが、バスの車内からみる東京はまだ長閑な雰囲気に包まれている。ハトバスの車体も古いボンネット型だ。

高峰秀子演じる末娘は二番目の姉(三浦光子)と一緒に暮らしている。場所は東京の下町だ。おそらく深川あたりだろうと思われる。一方母親は息子と一緒に別の家で暮らしている。場所はおそらく姉の家の近く、つまり深川あたりだろうと思われる。陋巷の一角といったところで、刃物の修理屋が「はさみ、包丁、とぎや!」と声を張り上げながら通り過ぎる光景が昔懐かしい。

長姉(村田知栄子)が高峰秀子演じる末娘に縁談を持ち込んでくる。相手(小沢栄)はパン屋ということになっているが、何やらいかがわしさを感じさせる男だ。末娘はこの縁談の背景になにか胡散臭いものを感じて、心を許さないでいる。そのうち、この縁談は長姉の打算によるのだということが次第に明らかになってくる。

次姉の亭主が突然死ぬ。亭主には生命保険が掛けられている。その保険金をほかの家族が狙う。長姉の亭主は事業資金を用立ててほしいといい、長男は就職活動資金を用立ててくれといい、母親は母親で小遣が欲しいという。そんななかでも、死んだ亭主には妾がいることがわかって、その妾から手切れ金を要求されたりする。そんな要求に対して、次姉は腹も立てずに応えているので、末娘はもどかしくて仕方がないのだ。

その二人が一緒に妾のアパートを訪ねるシーンがある。その中に出てくる運河や鳥居の景色から佃島のように思われた。二人はこの後深川の御不動さんにお参りするのだが、それは恐らく、佃島に行った後、深川にある家に戻る途中のことと考えられる。

そうこうするうち、パン屋が助平根性を発揮して長姉に手を出す。すると長姉から捨てられたかたちの亭主が、母親の家に転がり込んでくる。何故そんな男の面倒まで見るのかと末娘はいうのだが、母親は、「娘が捨てた男を放っておけないよ」といって、ケロッとしているのだ。

パン屋は次に次姉にも手を出す。次姉は、神田に店を出すのだが、それを援助するとみせかけて自分の女にしてしまうのだ。そんな有様を見せられた末娘は、すっかりあきれ返り、ついには家を飛び出して世田谷のある家に間借りするようになる。高峰秀子演じる末娘にとって唯一の慰めは、この家の隣りに住んでいるさわやかな兄妹(根上淳と香川京子)と近づきになれたことだ。そこからやがて一つの愛が形になるかもしれない。

そんな彼女のところに母親が訪ねてくる。次姉の行方がわからないというのだ。ここで、母子水入らずの会話が広げられる。なんとも悲しい会話だ。

高峰秀子演じる末娘は母親に向かって、自分たち兄弟姉妹に親密さがないのは、それぞれ父親が違うからだと言い、何故同じ父親から生んでくれなかったのかと母親を責める。それに対して母親は、「世の中なんて、思うようにはならないよ」と応える。そこで末娘が、「生まれて一度だって幸福だと思ったことはなかったわ」と畳み掛ける。ある意味残酷な言い方だ。

娘からそんなことを言われて、母親は気が動転してしまい、大声を上げて泣き出す。「母ちゃんだって、一人一人お腹を痛めて生んだんだ」と声を振り絞りながら。すると娘も、それにつられて泣く。こうして二人で泣いているうちに、心の中が洗われたのか、二人は仲直りする。

泊って行きなさいと娘は薦めるのだが、母親は次姉が戻ってくるかもしれないといって、家に帰ることにする。そこで末娘は、駅まで母親を送っていくのだが、その彼女らが肩を並べて歩いていく後姿を映すところで、この映画は終わっているのである。

こんな筋書きからも伺われるとおり、この映画には背骨となるようなテーマがない。劇的な展開もなければ、ダイナミックな心理描写もない。高峰秀子が演じる末娘の視線はある意味で強烈だが、それは自分の周囲のだらしなさに腹を立てている者の視線であり、その意味で後ろ向きだ。というのは、ただの愚痴に止まっているということだ。

愚痴といえば、とかく非生産的なろくでもない行為のように見なされがちだが、必ずしもそうではない。愚痴というものは、ある意味、人間が生きていくうえで欠かせないひとつの生き方のスタイルを表現しているものなのだ、だから愚痴をこぼす人間を軽蔑する資格は誰にもない。そんなことを、成瀬はこの映画を通じて、言いたかったのかもしれない。




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