壺齋散人の 映画探検 |
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「女の中にいる他人」は、成瀬の作品としてはかなり変ったものだ。成瀬といえば女の生き方に拘った映画を作り続け、とくに戦後にはその傾向が強まったのだが、この作品で描かれているのは女の生き方とはいえない。むしろ男の、それもかなり軟弱な男の生き方である。女はそんな男を見守り、時には男の気持を引き立てるための脇役のような位置づけをされている。それまでの成瀬映画とは、全く違った雰囲気の作品だ。 この映画を一言で特徴づければ心理劇的なサスペンスドラマということになろう。テーマは、殺人を犯してしまった男の苦悩に満ちた心理状態を描くことにある。この男(小林圭樹)は、友人(三橋達也)の妻と不倫を重ねたうえ、彼女を殺してしまうのだが、生来気の弱い性格らしく、自分の犯した罪の意識を自分だけで抱えていられない。そこで妻や友人にそれを告白することで心の安定を取り戻そうとするのだが、告白されたほうはその男を許してしまうので、男のほうではかえって自分の罪が深くなるのを感じ、ついには警察に自首する決意をするに至る。ところが夫に自首されれば残された者が不幸に陥ると危機感を覚えた妻(新珠三千代)が、自殺に見せかけて夫を毒殺する、という救いのない話になっている。 救いのない話という点では、成瀬の描いてきた女たちも救いのない境遇にあったものばかりだが、この映画のように男の境遇の救いなさというのは、他の作品には見られぬものである。この男が救いようがないのは、優柔不断な性格に由来している。大体友人の妻を殺すについても、殺意があったわけではなく、セクシーな遊びの延長で何となく殺してしまうのだ。だからこの男は自分のした行為が十分に理解できていないと言ってよい。それゆえ、それを後悔するについても、なんのために自分が後悔しているのか納得できないでいる。ただただ不安なのである。それは罪の意識というよりは、自分の境遇に馴染めないものの不安なのだ。 不安は脅迫神経症という形をとる。そんな男を妻も不安な気持で見ている。そこで夫に温泉でのんびり休養することを勧める。だが温泉で休養しても不安は収まらない。それを自分の心のなかに閉じ込めているからだ。そこで男は妻を温泉に呼び寄せ、そこで自分の犯した罪を告白する。そうすることで幾分でも気持を和らげようというのだ。この利己的といってよい告白に接して妻は仰天する。彼女には自分や子どもたちを守ることしか頭にない。そこで夫には、何もなかったと思って、このことは忘れなさいと勧める。 妻に告白しても不安が収まらない夫は、次に友人(三橋)に自分の犯した罪を告白する。友人は驚くが男を責めることはしない。彼は自分の妻を愛していなかったのだ。それで妻のときと同様に、このことは忘れろと男に勧める。 妻からも友人からも許された男は、かえってそのことで自分の罪が深くなるのを感じる。その罪の意識を抱えたままではとても生きて生けないような気がする。悩みは深まるばかりなのだ。そこで男はこの悩みを根っこから絶つには法の裁きを受けることが必要だと思いつめるようになる。こうして男はついに警察への自首を決意する。 夫の決意を知った妻は、自分や子どもたちを守るために夫を抹殺する決意をする。夫の決意を聞かされた彼女はこう嘯くのだ。あなたが表から出てゆく前に、わたしが裏口からひっそりと始末してあげる、と。かくして夫を自殺に見せかけて殺した妻は、とりあえず自分と子供を守ったものの、この先、夫と同じような不安を抱えて生きてゆくことになるのではないかとの、新たな不安におののくのである。 夫を演じた小林圭樹が、優柔不断な男の揺れ動く心理状態をよく表現していた。一方妻を演じた新珠三千代は、平凡な主婦の感じを出している。彼女は「洲崎パラダイス赤信号」での尻軽女のイメージが強いのだが、この映画で落ち着いた主婦の雰囲気を出せていたのは、やはり年の功だろうか。この二人に比べると三橋達也はいまひとつすっきりしない。妻を殺した男に向かって、そんなことは忘れろというような不自然な言動をさせられているからだろう。 |
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