壺齋散人の 映画探検
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乱れ雲:成瀬巳喜男



1967年の映画「乱れ雲」は、成瀬巳喜男の遺作となった作品である。成瀬の遺作としては多少の物足りなさを感じさせる。溝口(赤線地帯)や小津(秋刀魚の味)の遺作がそれなりの迫力を感じさせるのに比較して、成瀬のこの映画は、燃え尽きたエネルギーの残り糟のような感じを与える。成瀬は晩年まで駄作の少ない作家だったといえるのだが、この映画は、駄作とはいえないまでも、傑作でないことは誰しも認めるだろう。

題材がよくないのかもしれない。この映画は、交通事故で死んだ男の妻と、加害者の男とのかかわりから始まり、ついには二人が愛し合う過程を描きながら、なぜか結ばれることなく、別れ別れになってしまう結末を描いている。加害者の男が被害者の妻に同情して愛し始めるという設定はありえないまでも、自然なこととはいえないし、まして被害者の妻が加害者を愛するようになるのは、よほどの事情がないかぎりあり得ないことと言ってよい。いずれにせよ不自然極まりない設定だ。その不自然な設定で、二人の愛し合う過程を描くわけだから、映画としてはかなり窮屈だ。この映画はその窮屈さを感じさせて、観客としてはしっくりと受容できないところがある。

加害者の男を加山雄三が演じている。加山は「乱れる」で義理の姉を愛する男を演じたが、この映画でも年上と思われる女を愛する役回りだ。愛される被害者の妻は司葉子が演じているが、彼女はこの映画の時点では加山より実際に年上だった。彼女は加山を、夫を殺した加害者として憎む一方、次第に愛するようになる。それは一徹な加山の愛に対して、母性愛のようなものを感じたからだというふうに伝わってくる。二人で十和田湖に遊んだ際に加山が俄に発熱したため、司が寝ずに看病する場面が出てくるが、それはまさに弱い男を前にした母性愛の発露のように感じられる。

「乱れる」では、年下の義理の弟の一徹な愛に直面して、年上の女である高峰秀子が混乱しながらも、ついに男の愛を受け入れることがなかったのだったが、そしてそれが原因で気の弱い男が自殺するという結末を迎えたわけだが、この映画では、女のほうは一度は男の愛を受け入れながらも、結局それが実を結ぶことにつながらない。映画ではその理由を、妻の夫への愛のためだというように描いているのだが、それがどうも観客にはしっくりと伝わらない。そんなわけでこの映画は、観客を宙ぶらりんな気持にほったらかしにしたまま突然終わってしまうという印象を与える。

男と女の不幸な愛を描いただけなら、この映画はできの悪いメロドラマで終わっただろう。だがこの映画には、それにとどまらせないような要素がいくつかある。まず、当時の日本の女、とくに妻が置かれていた状況をリアルに描いている点だ。夫が死ぬとすぐに、夫の両親から籍を抜くようにほのめかされる。妻は夫の遺族年金を受給するようになるのだが、それを夫の両親が貰いたい為に、嫁に籍を抜くようにせまる、というふうに伝わってくる。この辺は、日本の当時の家族関係が批判的に取り上げられているところだ。

交通事故の描き方も今とはかなり違っている。いまなら人身事故を起こして相手を死なせてしまった場合には、すぐさま逮捕されて、まず無罪になることは考えられないが、この映画では、加害者の加山は逮捕もされず、罪に問われることもない。加山は法的にはなんら責任はないにかかわらず、人間的な感情から加害者の妻に同情するということになっている。これなどは、時代を強く感じさせるところだ。

とにかく全体的に暗い雰囲気で蔽われている。加山と司の愛が燃え上がる場面でも、画面がぱっと明るくなることはない。そのため陰鬱な印象ばかりが残される。後味の悪い映画の範疇に入ると言えよう。「女の中にいる他人」もそうだったが、最晩年の成瀬の映画は、非常に沈うつな感じばかりが前面に出て、潤いのようなものが欠けているようである。





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