壺齋散人の 映画探検
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銀座化粧:成瀬巳喜男の世界



アジア太平洋戦争の末期から戦後しばらくの間、成瀬はスランプ状態に陥った。このころは溝口健二も軽いスランプに陥ったのだが、成瀬のスランプは溝口よりずっと深刻だった。戦争末期には成瀬得意の女物は女々しいとして抑圧されたし、戦後は価値観の混乱もあって、成瀬のような古風の人間には、自分を立て直すのに時間がかかったのだろう。そんな成瀬にとって、1951年に作った「銀座化粧」は、映画人として立ち直り、その後の飛躍にとっての足がかりとなるものだった。普通の見方では、成瀬の戦後の本格的な再スタートは「めし」だとされるが、それより半年ばかり早く作ったこの「銀座化粧」を戦後の再スタートを記念する作品というべきだと思う。

銀座の裏通りで、一人息子と暮らす中年女の生き方がテーマである。田中絹代演じるこの中年女は、キャバレーで働きながら息子を育てているということになっているが、息子の面倒はほとんど大家の夫婦に任せきりで、自分自身の楽しみを大事にしている。それにまだ女盛りとあって、男が欲しいと思ったりする。それで若い男と縁ができると、どうにかして恋人になれたらいいななどと思うのだ。そんな中年女の自立に拘る生き方が映画のテーマである。大した筋書きはない、キャバレー勤めの折に体験するさまざまの人情模様とか、若い男をめぐる熟年の恋といったものが、淡々と描かれる。その淡々としたさまは、戦前の成瀬映画にも見られたもので、たとえば「君と別れて」などは、自分の運命を受け入れた女たちの諦念のようなものが、それこそ淡々と描かれていたものだ。この「銀座化粧」はそういった戦前からの作風に加え、女の目線に沿いながら、社会を斜に見るような構えた姿勢も感じさせる。その「斜に構えた姿勢」が、その後の成瀬映画の大きな要素となっていくわけである。

銀座はまだ完全に復興していない。表通りには活気が戻ってきているが、一歩裏通りにはいると、とても都心とは思えないような裏さびれた雰囲気がただよっている。その裏さびれた横丁に住んでいる様々な人間とか、キャバレーにたむろする人間たちとの間に、田中絹代演じるホステスがさまざまな人間模様を繰り広げるのである。

見どころは、信州の田舎から出てきた青年に東京見物の案内をするうちに、この青年に惚れてしまい、子どもをそっちのけにして遊びまわるところである。その罰があたっかのか、子どもが一時的に行方不明になり、田中は隣人たちとともに、大騒ぎをするはめになる。幸い子供はすぐに戻ってきたが、キャバレーの後輩ホステス(香川京子)に好きな青年をとられてしまう。そのことに田中は激しい嫉妬を覚えるのだが、惚れあった若い男女に年増の自分が対抗できるわけもなく、すごすごと引き下がる。その引き下がる際の田中の表情がなかなか色気に富んでいるのである。

その色気が男を引き付ける。田中演じる中年女は、若い男から女として見てもらえないが、。スケベ爺たちには引く手あまたであって、時には倉庫に連れ込まれて強姦される危機にも直面する。だが、そこは気丈夫な女として、猛然たる反撃を加えるのである。

この映画の中の田中は、せりふ回しにぎこちなさを感じる。台本を棒読みしているようなわざとらしさに加え、アクセントにも強いなまりがある。おそらく故郷の長州弁が抜けきらぬせいだろう。それにしてもこの映画の中の田中のせりふ回しが特に不自然に聞こえるは、この映画の田中が異常に饒舌なためだと思う。この映画のなかの田中は、しょっちゅうしゃべり散らしているのである。これ以外の映画では、田中はそんなに喋りまくることはなかった。だからせりふの口調に多少癖があっても、そんなには目立たなかった。田中はやはり、無口な役柄が似合っているのではないか。

この映画でも、金にまつわる事柄が繰り返し出てくる。成瀬の映画の大きな特徴の一つとして、金をめぐって苦心算段する人間たちの生き様を描くということがあるが、その映画の中の田中も始終金の心配ばかりしているのである。

なお、この映画の中でも成瀬こだわりのチンドン屋が出てくる。めずらしく田中が街を歩くのに合わせて、田中の先導役のような役割を果たしている。そこに成瀬の工夫を感じる。




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