壺齋散人の 映画探検 |
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成瀬巳喜男の1958年の映画「杏っ子」は、室生犀星の同名の小説を映画化したものだ。この小説は犀星の自伝というべきものであるが、そのうち後半部における作家(犀星)と娘とのかかわりの部分を取り出して描いている。娘は疎開先で知り合った男と結婚し、その男の家庭内暴力に苦しんで離婚する結末になっている。それを成瀬は、離婚に至らない手前で終わらせ、この夫婦がその後どうなるかについては、明示的なメッセージを発していない。 犀星をモデルにした父親を山村聡が演じ、娘を香川京子が演じている。高名な作家とその娘ということで、作家の家は中流家庭として描かれ、娘はなんの苦労もなく育った快活な女性として描かれている。そこが成瀬の主要な映画群とは異なるところだ。成瀬の映画と言えば、貧困に追われながら、必死に生きている女たちを描くというのが定石だったが、この映画では、中流家庭に育った女が、夫との結婚生活に悩むというふうに設定されている。香川演じる女性は、彼女なりに勝気なところが成瀬映画にふさわしいといえなくもないが、基本的にはお嬢さん育ちであり、他の映画に出てくる女たちとは違う。 似ているところは、香川が気の強い女であり、亭主の横暴に屈従してはいないところである。その亭主は、作家志望なのだが、自分の才能をかいかぶりすぎており、自分が出世できないのは、自分に理由があるのではなく、世間が悪いのだと考えている。かれにとって妻の父である作家は世間のシンボル的な存在なのだ。そんなことで夫は、作家への屈折した感情を娘である妻に向ける。その夫のめちゃくちゃな振舞いを、香川は育ちのよさもあって、鷹揚に受け止めるのだったが、そのうち耐えられないことが重なって、たびたび父親に庇護を求める、というような内容である。 香川はこういう映画には似合っているといえる。高峰秀子や、まして田中絹代のような女性には、こういうタイプは似合わない。香川は一見して清楚な印象を与えるので、こういういかにもお嬢さんタイプの女性が似合うのである。そんなわけでこの映画は、他の成瀬映画と違って、香川演じる女性が全体を引っ張っていくというふうには作られていない。どっちかというと、山村演じる父親のほうにウェートが置かれている。女の視点からというよりは、父親の視点から描かれているのだ。それは原作自体が犀星の自伝であり、したがって犀星自身の視点に立っているということもあるが、やはり山村聡の独特の存在感のためであろう。山村は、「山の音」でも、原節子演じる息子の嫁との間に独特の存在感を漂わせていた。この「杏っ子」は「山の音」と同じような雰囲気の作品といってよい。 この映画は「あらくれ」のすぐ後に作られている。「あらくれ」と比べてみると、その落差に驚かされる。「あらくれ」は自分の身の始末に苦労する女のすさまじい生き方がテーマになっていたが、この「杏っ子」では、女の生き方よりも、父親の娘に対する慈悲の感情が前面に出ているのだ。成瀬の映画の中では、独特の位置を占めるのではないか。 |
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