壺齋散人の 映画探検
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鰯雲:成瀬巳喜男の映画



成瀬巳喜男の1958年の映画「鰯雲」は、成瀬にしては珍しく、日本の農民の家族関係をテーマにした作品である。それも、因習的な家族関係をそのままに描くというのではなく、戦後民主主義の普及を反映して、変わりつつある家族関係を、ある種の社会的な視点から描いている。その視点というのは、家族関係が民主的で開かれたものであるべきだというような、当時の日本の一部にあった「進歩的な」考え方を反映したものと言えそうである。

農村といっても、神奈川県の厚木周辺の、いわゆる近郊農村である。1958年といえば、高度成長が始まる前だから、東京近郊には、まだ広大な農村地帯が残されていた。そんな農村でも、農地解放は行われており、小規模な自作農が多数出現していた。この映画に出てくるのは、農地解放で農地をとられ、自身が小規模自作農の境遇に陥ったもと地主と、かれの家族を囲むさまざまな人々であり、その人々の間に繰り広げられる人間関係を描いている。

その人間関係は、社会の変化にともなって変わりつつある。場合によっては、農村家族が解体の危機にあるという具合に伝わってくる。実際、農村における古い家の概念は解体しつつあり、個人主義的な価値感が農村の人々をも捉え始めていたのである。成瀬の視線は、そうした社会の変動が、個人に及ぼす影響に向けられている。

といっても、この映画は決して、いわゆる社会派の映画ではない。成瀬は、明かに社会の矛盾と思われる事態を描くときにも、それを正面から大袈裟に描くようなことはしなかった。個人の個人なりの生き様を描きながら、その個人の不具合を通じて社会の不具合が見え隠れするような描き方をした。

それはこの「鰯雲」でも同様である。この映画に出てくる人々は、さまざまなことを通じて社会の矛盾にさらされているのだが、かれらにはそれについての自覚はない。ただ、自分の都合のよいように振る舞う自由を自覚しているだけだ。だが、その自由の行使が、それまでのように強く抑圧されることがないから、それをつうじて社会の変動が進んでいく。そのいわば集団的な無意識というべきものを、成瀬はさらりと描いているのである。

主人公を淡島千景が演じている。彼女は、日本の映画史上もっともユニークな女優といってよいのだが、そのユニークさが、鳴瀬映画には多少場違いに映らないでもない。




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