壺齋散人の 映画探検
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風の中の牝鶏:小津安二郎の世界



「風の中の牝鶏」は昭和23年に作られた、小津安二郎の戦後第二作である。小津はこの映画で、戦争がいかに人々の生活に破壊的な影響をもたらすかについて淡々と描いている。あまりに淡々として、戦争を正面からは問題にしていないほどだ。問題にしているのは、罪を犯した女性とその夫の心の風景である。それがあまりにも当たり前のように描かれているので、見ている者はやるせない気持ちになる。実に悲しい映画なのだ。

夫を戦争にとられ、子どもと二人でひたすら夫の帰りを待つ女性(田中絹代)。戦後のインフレを前にいわゆる筍生活をしているが、子どもが重病になり、多額の入院費用が必要になる。そこでこの女性は恥を忍んで一度だけ売春をする。その一度だけの売春が、この女性の心と、後になってそれを聞かされた夫の心をかきむしるのだ。この映画は、買春をテーマにした罪と罰の物語だ。

売春の場面は表立っては出てこない。そういうことがあったと、さらりと触れられるだけである。だがそれがもたらした効果については、執拗に言及される。まず、親友の女性が激しく田中絹代を非難する。何故そんなバカなことをやったのかと。田中絹代は涙を流しながら、力なく応える。それ以外にやりようはなかったんだと。友人の女性は、このことは決して夫に語ってはいけないと忠告する。

やがて夫が復員して帰ってくる。留守中何か変わったことはなかったかと聞かれて、田中絹代は正直に答えてしまう。数年ぶりに再開した夫婦だというのに、その再会の夜から二人は苦悩のどん底に突き落とされてしまうのだ。

何も夫と再会したその夜に自分の犯した過ちを話すことはなかったかもしれない。しかしそうせざるをえなかったほど、この過ちが妻の心に刻んだ傷は深かったのだ。妻は自分の過ちを一刻も早く夫に告白し、その過ちに対する罰を夫に下してほしい。どんな罰であっても自分は進んで受けるであろう。それが妻としての自分のぎりぎりの生き方だ。犯した罪は消えてなくなりはしないのだから、せめてそれに対する罰を引き受けることによって、人間としての最低のラインを踏み越えずにいたい、そんな妻の心の動きが痛いほど伝わってくる。

当寺こういうケースは沢山あったはずだ。復員してきたら妻が他の男と結婚していたなどというケースもあったという。先日見た新藤兼人監督の映画「一枚のはがき」では、妻が自分の実の父親と一緒になっていた。一人で残された女が、帰って来るかどうかわからない夫にいつまでも操をたてていたら、自分が生きていけない。そんな女を誰が責めることが出来よう。

ましてこの映画では、自分ではなく子どもの命を助けるために、ほかにしようがなかったのだ。しかし、そのしようがなかったということを弁解するのがこの映画の趣旨ではない。犯した罪に苦しむ人間の心のあり方を描くのが趣旨なのだ。

この映画を見て筆者はアメリカ映画「ウォータールー・ブリッジ」を思い出した。あの映画でも、恋人が戦場に赴き取り残された女性が、困窮のあまりに売春することになっていた。やがて恋人が復員してくると、その女性は自分の犯した罪に耐えられなくなり、自殺してしまう。そこのところが、アメリカ人と日本人との違いなのだろうか。小津は、田中絹代に自殺させる気配は全く感じさせない。田中はひたすら自己を責めて、自分の犯した罪を夫によって罰せられることを願うのみなのである。

夫はさんざん悩んだあげくに妻を許すことにする。しかしそう割り切るまでには様々な心の揺れが介在する。夫は、妻が売春を行ったという場所を自分の目で確かめたり、妻子を放置して外泊をしたりする。そして最後に二階の階段の上から妻を突き落す。その場面がこの映画のハイライトである。

二人は二階の階段の上にいる。夫が妻を突き飛ばす。妻はよろめいて階段を落ちていく。そこでショットが変り、正面から映し出された階段を、田中絹代が激しい勢いで落ちていく。再びショットが変り、今度は上から階段下の様子が映し出される。そこには俯けに横たわっている田中絹代の姿が悲しげに映し出される。

かようにこの場面では、小津は映像をして雄弁に語らしめることに成功している。人は言葉を介さずとも心中をよく表現することがあるのだ、というように。

それはやはり俳優の演技のしからしめるところなのだろう。妻を演じた田中絹代の演技は実に迫力があった。悲しみや不安、そして後悔や自己嫌悪といった様々な心の動きを、心憎いほどに表現していた。やはり大女優といわれただけはある。

画面には戦後の東京の風景も映し出されていた。妻が売春行為をしたという月島のある家を夫が訪ねていくシーンがあるが、そのなかで勝鬨橋をバックに荒涼とした東京の風景が映し出されていた。月島川から見る勝鬨橋は、今では高層ビルに取り囲まれて見えるが、この映画の中では、まるで何もない空間に橋だけがかかっているといった眺めに見える。夫が立っている手前の地点は廃墟のようである。この時点では都心でさえまだ復興が進んでいなかったということを、如実に物語るものであろう。

それはともあれ、この映画を21世紀の日本人が見たら、理解できないところが多いだろう。少なくとも共感はできないだろう。夫が戦争に取られたからといって、妻は何故困窮のあまり売春までしなければならないのか。売春したことは一つの罪には違いないとしても、何故その罪を妻一人が背負わねばならないのか。そこのところが21世紀の日本人には理解できないだろうと思うのだ。

だが、小津がこの映画を作った当時には、そうしたことが別に特異でもなんでもない、当たり前の、誰にでも理解できることだったのだろう。だから小津は、この女性の犯した罪に対して、それほど仰山な断罪はしていないのだろう。この映画を、21世紀に入って初めて見た筆者は、そんな風に感じた次第だ。




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