壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板




非常線の女:小津安二郎



小津の映画「非常線の女」は、1933年のサイレント映画で、小津にはめずらしくギャング(映画では「与太者」となっている)をテーマにしたものだ。小津がどんなつもりでこんな映画を作ったのか、よくはわからない。興業を当て込んだ映画会社の意向なのか、小津自身のアイデアなのか。内容は当時流行のアメリカのギャング映画を焼きなおしたようなもので、それに日本的な情緒をアレンジしてある。映画の出来栄えがよくないのは、小津がこの手合いの世界とあまり縁がないからだろう。

映画の主人公は、田中絹代演じるズベ公と岡田譲二演じる与太者。岡田はもとボクサーということになっていて、その腕に魅かれて子分になるものがいる。三井弘次演じるチンピラもその一人だ。このチンピラには弟思いの姉がいて、その誠実そうな人柄に与太者の岡田が惚れてしまう。惚れたついでに、姉の苦境を助けようと一肌脱ぐ。ズベ公も姉の人柄に惚れこんでそれを手伝う。これが最後の仕事だと言って強盗を働くのだ。題名にある「非常線の女」というのは、強盗がばれて警察に追われ、逃げまわる彼らを取り囲んだ非常線のことを言うのである。

ボクサーの岡田が他の女に惚れるのはわからないではないが、女のズベ公が恋敵に惚れるのはどうもわけがわからない。でも小津はそんなことはおかまいなしに、話を進めていく。話の展開には小津らしい小気味よさがあるので、映画としては全くつまらないわけでもないが、やはり全体が無理にできているので、駄作との印象はまぬがれない。

田中と岡田はギャング仲間ということになっており、彼らには大勢の子分もいるのだが、ギャング映画にしては、彼らが活躍する場面がほとんどない。やっと映画の最後の部分で強盗を働くわけだが、それはあまりスマートとはいえず、すぐに警察に追われる身になる。警察に追われれば必死になって逃げるのかといえば、そうではない。ズベ公のほうが弱気を出して、自分たちから「つかまっちゃおうよ」と言い出す始末。このまま逃げ切るのは難しいし、つかまっても二・三年我慢すれば、また娑婆に出てこられる。そうしたら二人でやり直そうよ、と言うわけである。当時の強盗犯は懲役二・三年というのが相場だったのだろうか。ともあれギャングの言い分としては、あまり格好よいものではない。

また、いかにアメリカ映画の焼き直しとはいえ、与太者が拳銃を持てあそんでいる眺めは、当時の日本としては考えられないことだ。当時の日本のやくざは、日本刀か脇差を振りかざして相手を嚇したほうが似合っているのではないか。その拳銃で田中絹代は、敵ではなく味方の岡田を撃つわけである。それも夜の東京の町を逃避する最中に。小津がこの映画の中で映し出した夜の東京は、まるでニューヨークの街角をそのまま日本に移したような光景を呈している。小津はこうした都会的な眺めが好きだったのだろう。

この映画の中の田中絹代は、他の映画と比べると、かなり違った印象を与える。ズベ公らしくふてぶてしい表情を見せるし、そういう顔つきの時には決して美人には見えない(もともとたいした美人ではないが)。彼女は非常に小柄なのだが、そしてその小柄さは男と並ぶと強調されて見えるのだが、単身の姿はけっこう大きく見える。横になると羊羹のように平板に見えるのは、ボディラインをわざと男っぽくしているからだろうか。

その田中が岡田に嫉妬して、あの女を忘れてよ、あたいを可愛がってよ、あたいをかわいそうと思ってよ、と懇願する。いくらズベ公でも、つつしみがなさすぎるというものだ。この映画と同時期に作られた「東京の女」の中の田中も、やはりつつしみに欠けた女を演じていた。この頃彼女は二十四歳で、女ざかりのはずだったのが、彼女のキャリアの中では、いまひとつさえない役柄を、大監督の小津に強いられていたわけだろうか。

岡田が惚れた女を演じていた水久保澄子は、成瀬の「君と別れて」で不運な芸者を演じていたが、その時と同じように、いかにも頼りのなさそうな、おどおどとした表情をしている。これが彼女の地顔なのだろうか。





HOME日本映画小津安二郎次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである