壺齋散人の 映画探検
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木村荘十四「兄いもうと」:室生犀星の短編小説



木村荘十四の1936年の映画「兄いもうと」は、室生犀星の同名の短編小説を映画化したものだ。この短編小説は戦後も、成瀬巳喜男、今井正によって映画化されたほか、テレビドラマにもなったくらいから、日本人の気持にしっくりするものがあったのだろう。

小説の内容は、身を持ち崩した妹の境遇を心配するあまりに、兄がなにかと節介をやき、それをうるさく思う妹との間に延々と口げんかを広げるというもので、筋書きにはほとんど変化らしいものがなく、ひたすら兄妹の口げんかのやり取りを繰り広げるというものだ。そこのどこが面白いのか、筆者にはいまひとつわからないところがあるが、一昔前までの大方の日本人には腑に落ちるところがあったのだろう。

映画では明示されていないが、舞台は多摩川の六郷辺の農村地帯。そこに住む一家の主人は大勢の川人足を使う親方だ。上の娘のおもんは、奉公先で男にだまされ妊娠して家に戻ってくる。それを兄がいたたまれない気持で見ている。兄は妹があまりに不憫なあまりに、気持ちが混乱してしまい、優しく見守ってやることができない。こんなことになったのは、若い女を女中奉公などに出したからだと言って親を責め、妹に向かってはお前がふしだらな気持だからだと責める。そういう自分自身は、石工に雇われて、金ができるごとに女遊びに現を抜かしている。そんな二人には争いがたえない。

結局妹は死産した後に、水商売に足を突っ込みながら一人暮らしを始める。そんな折に、妹を妊娠させた男がぶらりとやってくる。父親が会って、男の用件を聞くと、ただ謝りたいというばかり。父親は、殴りつけたい気持を抑えて、男を去らせる。ところが兄のほうは、妹を堕落させた男が許せなくて、男の後をつけた挙句、さんざん暴力を振るう。兄は父親よりずっと単純にできているようなのである。この兄が男との間で、君とか僕とか、書生言葉を使うところが面白い。

一旦家を出ていた妹が久しぶりに家に戻ってくる。彼女は彼女なりに家族を愛していて、時折家族の顔が無性に見たくなるのだ。そんな妹に兄は辛く当たる。そして彼女を訪ねてきた男をさんざん痛めつけてやったと言う。まるでお前の仇をとってやったぞと言わんばかりだ。ところが妹のほうは、男をなぐったことで兄をさんざん罵る。その罵り言葉がすさまじい。水商売に足を突っ込んでいるおかげで、この手の啖呵はお手の物といわんばかりに、次々と兄を罵っては、そばで聞いている母親や末娘を唖然とさせる。母親は、お前は大変な女におなりだね、と言ってどうしてよいかわからないほど混乱するのだ。

罵られた兄のほうは、妹を心配してやったところが、かえってこんな悪態をつかれてしょぼんとしてしまう。一方兄を罵った妹のほうは、別に別れた男がかわいいわけではない。男とヨリを戻そうなどとは考えていない。ただ兄が姑息な行為に及ぶことで、自分の顔をつぶされたと怒るのである。

こんなわけで、この映画はいまの日本人にはあまり受けないだろうと思う。受けるとしたら兄妹愛のきめのこまかさだろうが、それも今の日本人には回りくどいと感じられるかもしれない。今の若い連中は、こんな持って回った表現ではなく、もっとストレートにものを言うし、第一女性を男が保護すべき弱い存在などと考えている人は少なくなってきている。そういう意味では、この映画は時代を感じさせる。

兄と男が二人並んで野原に腰を下ろすシーンが印象的だ。膝を曲げて、下した尻を宙に浮かせる。いわゆる排便スタイルだ。そのスタイルで横に並び、深刻な話をするわけだから、見ているほうとしては、多少混乱させられる。今の日本人は、こんなスタイルで深刻な話をしたりはしない。というか、洋風便器が普及したせいで、こういう姿勢をとること事態が無くなってきつつある。



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