壺齋散人の 映画探検
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清水宏「風の中の子供」:古き時代の日本の子供たち



清水宏はいまでは忘れられたも同然の存在になってしまったが、日本映画の黎明期を支えた監督の一人として、数々の名作を作った。彼の映画の大きな特徴は、子供に視線を向けていることで、古き時代の日本の子供たちを生き生きと描きだしていた。その子供好きは映画の世界を飛び越えて、実生活にも及んでおり、戦後の混乱期には親を失った浮浪児たちを自分の手で養っていたほどだという。

清水の作品の多くは失われてしまったが、「風の中の子供」は、いまでもDVDで見られる。清水の代表作と言ってもよいこの作品は、子どもの生態を心憎いほど生き生きと描き出しているので、ろくな筋などなくても、子どもの動きや表情をみているだけで、楽しくなるような作品だ。

舞台は、ゆったりとした自然に囲まれた小さな集落。そこで暮らしている子供たちの学校生活や遊び、そして子供同士の付き合い方などが、丁寧に映し出される。子供たちは、群を作って動き回り、川で水遊びをしたり、ターザンの雄たけびを真似たり、喧嘩をしたりする。その有様を見ていると、井上靖が「しろばんば」の中で描いていた子供の世界と通じるものを感じる。かつての日本の子供たちの世界は、それ自体が小さな宇宙であった、そんなふうに感じさせられるのだ。

肝心なのは、子どもたちの群の中には、集落のすべての子供がもれなく加わっているらしいということだ。この映画の中の子供たちは、一人として孤立していない。みな共同体の一員として、深く関わりあいながら生きている。彼らはその関わり合いを通じて、社会性を身に着けていくのだろう。それ故、何かのきっかけで、この関わり合いから排除されるようなことになると、それは恐るべき事態を意味する。

この映画の主人公は子供たち全体といってもよいのだが、中でもその格となる存在は、善太と三平の小学生の兄弟だ。善太の方は学校の成績もよく、通信簿に5を沢山もらってくるが、三平の方は1と2ばかりである。父親はそんな子どもたちに鷹揚で、子供の本分は勉強ではなく遊ぶことだというような考えでいる。それ故子供たちは思う存分羽を伸ばして遊べるというわけである。

その父親は地元の企業を経営していることになっているが、どうやら企業の中の人間関係がもとで、陰謀にはめられ、警察に連行されてしまう。その前に、近所の子供が善太に向かって、お前のお父さんは会社を首になって、警察にしょっ引かれるぞと予言するシーンがある。大人たちの陰謀話を聞いた子供が、子供社会内での自分の地位を高めるために、ライバルの子供を貶めようとしていったのであろう。

その予言通り、父親は会社から追放される。父親に弁当を届けに行った三平が、会社の同僚から指弾されている父親の情ない有様を見せられる。そこで、こんな会社はとっとと辞めて、もっと大きな会社を作ろうよと父親を慰める。しかしその慰めのかいもなく、一人の刑事がやってきて、父親は連行されてしまう。そのシーンがなかなか考えさせる。

父親は刑事に向かって、自分の容疑は何か、また取り調べはどれくらいの期間がかかるかなどについて質問をするのだが、刑事のほうはまともに答えない。とにかく一緒についてこい、といった具合で、高圧的な態度なのだ。今ならこんなことは考えられない。少なくとも、容疑についての説明くらいはなされることになっている。ところがこの映画の時代(戦時中の昭和12年)には、警察は何の説明もしないで、いきなり拘束できたというわけだ。

父親が刑事に容疑内容を確認したのは、自分が無実の罪で逮捕されると考えていたからだろう。その容疑事実は、映画の中では最後の方でやっと明らかになってくるのだが、要するに会社の同僚が陰謀を巡らせて、虚偽の告発で警察をたぶらかしていたのである。たぶらかす悪党も悪党だが、たぶらかされる警察も警察だ、というような皮肉が、ここには込められているのかもしれない。

父親がいなくなってしまうと、母子の生活は一挙に危うくなる。父親は会社の金を使い込んだことにされて、財産を差し押さえられ、一家の生活基盤が無くなってしまうのだ。そこで、母親は善太とともに働きに出、その間三平の方は知人のおじさんの家に居候することとなる。

こうして家族から引き離された三平が、おじさんの家にやって来るのだが、来た早々ホームシックにかかり、家に帰る事ばかり考える。大木の上に上って自分の家の方向を眺めたり、川遊びの最中に盥に乗って川を下り、自分の家がある町へ行こうとしたり、挙句にはたまたま出会った曲芸団と一緒に自分の町に帰ろうと考えたりする。そんな三平をもてあましたおじさん夫婦は、三平を母親のもとに返す。

三平をあずかってもらえなくなって、母親は勤めに行くこともできなくなり、いよいよせっぱつまって川に身投げをしようかと思うに至る。そんな母親を見て三平はとことん悲しくなってしまう。

ところが思いがけないことが起こる。父親の無実を証明する証拠書類が出て来たのだ。その書類を持った母親はすぐさま弁護士を訪ね、その結果父親は無実を認められて釈放される。こうして一家には昔通りの生活が戻って来ることになった。

一家の生活がもとどおりになったことで、集落内の子供社会での兄弟の地位ももとどおりになる。彼らは一時、親たちが集落の村八分になったのにあわせて、自分たちも集落の子供社会から排除されていたのである。

この映画の原作は児童文学者坪田譲治の小説だが、清水は坪田の小説からプロットの大枠を借りながらも、筋の面白さを強調するのではなく、子供たちの世界を曇りの無い目で描き出そうと努めているようだ。この映画を見ると、子どもたちは豊かな自然に包まれながら、ゆったりとした時間を、のびのびと過ごしているのが伝わってくる。子どもたちは、大人たちとの関係、子ども同士の関係、自然との関係と言った具合に、重層的に縺れ合う様々な関係を自在に泳ぎ回っているかのように描き出される。その関係の糸は時にもつれることもあるが、もつれた糸はそのうち解消される。そんな楽天的な視線が、この映画の中の子供たちを、屈託のないものどもとして描き出すのに成功しているようだ。



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