壺齋散人の 映画探検
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自由を我等に(A nous la liberté):ルネ・クレールの映画



「自由を我等に(A nous la liberté)」は、ルネ・クレールの最高傑作である。この作品においてクレールは、それまで追及してきたオペレッタ風の映画に究極の形を与えたわけであるが、それ以上に重要なのは、この映画が深刻な社会批判を含んでいるということだった。この映画以前には、映画というものは基本的には娯楽の一形態であり、多少甘く見ても、映像芸術の端くれに過ぎなかったのが、この映画が出ることで、映画を通じた社会批判というものも成り立ちうるのだということを、世界中の人々に認識させたのである。

この映画が批判しているのは、機械文明である。これが作られた時代(1931年)には、フォードのベルト・コンベヤー式生産ラインが確立されて、生産現場では急速な機械化が進んでいた。そんな中で、人間が機械を動かしているのではなく、機械が人間を動かしている、といった倒錯的な現象が生じてきていた。人間はもはや、機械の一部分でしかなく、自分の頭で考える生き物ではなく、機械に命令されて動き回る惨めな動物に過ぎなくなっていた。そんな状況に対してクレールは、痛烈な批判を加え、人間には自由が何よりも必要なのだ、と訴えたわけである。

機械文明の非人間性を、この映画は対照的な二つの場面を通じて描き出している。ひとつは刑務所のなかであり、もうひとつはレコード生産工場の現場においてである。この映画の二人の主人公は、刑務所の中で知り合い、協力して脱走を図るのだが、一人は脱走に成功して、その後レコード会社の社長に上り詰め、もう一人は脱走に失敗するのだった。そしてこの二人が、刑務所で従事させられていた労働というのが、ベルト・コンベヤーによる機械化された労働なのである。懲役の労働であるから、そうでなくとも強制された労働であるのに、その労働が機械に従属した非人間的な労働だというのが、味噌である。

しかし、刑務所外においても、機械に従属した労働の非人間性は変わらない。むしろ、刑務所のような強制性が露骨に表れていないぶん、その非人間性はかえって強まる。刑務所における物理的強制にかわるものは、"働くことは義務だ"とする社会通念つまり心理的強制である。資本家たちは、この心理的強制を利用することによって、人間を非人間的な労働に駆り立てる。一方、駆り立てられた人間たちも、たいした疑問もなく働くというわけである。(当時は1929年の大恐慌の影響が収まらず、町には失業者が溢れ、どんな仕事でも文句を言わずに受け入れていた、という事情もある)

人間の機械への従属ということを強調するためにクレールは、ちょっとした不注意のためにベルト・コンベヤーの動きに取り残され、それを取り戻そうとしてあくせくするうち大混乱に陥ってしまう労働者たちの姿を映し出している。この場面を見ると、人間が機械に振り回されているということが、掛け値なしに伝わってくる。後年チャップリンも、これと同じようなシーンを「モダン・タイムズ」の中で描いた。チャップリン自身が機械を相手に悪戦苦闘する、あの有名なシーンである。

映画の筋自体はごく単純である。脱走に成功した男(レモン・コルディ Raymond Cordy)が、出世してレコード会社の社長になる。数年後そこへ、相棒の男(アンリ・マルシャン Henri Marchand)がやってくる。マルシャンは、工場で非人間的な労働をさせられているうちに、一人の若い女性に恋をする。しかしその女性にはほかに恋人がいて、マルシャンの恋は失恋に終わるというものである。それに平行して、昔の刑務所仲間が、コルディの成功振りをかぎつけて、ゆすりにやってくる。コルディのほうはそれに対抗して知恵を絞ろうとするが、結局はあきらめて何もかも棄て、マルシャンと一緒に自由気ままな生き方を選ぶ、というところで映画は終わるのである。

この映画のもうひとつの見所であるオペレッタ風の軽快さについては、ル・ミリオン以上に念のいったものになっている。人々が群れをなして動き回るところ、デーナーパーティの席上での狼藉振り、人々が風に煽られて舞い散る札を追い求め往左往する様子など、実に愉快なシーンが次々に現れる。コメディ作品としても超一流といえよう。

刑務所仲間や警察の追及を逃れた二人は、無一文になってしまったが、そのかわりに自由を取り戻した。二人は、この世で一番大事なものは自由なのだ、ということをしみじみと感じ取る。そこで、その自由を満喫するために、二人はともに放浪の旅に出るのだ。その二人が最後に歌う歌というのが、「自由であってこそ人生はすばらしい・・・自由を我等に、自由を我等に」というのだった。

なお、後年チャップリンが「モダン・タイムズ」の中で、機械に翻弄される労働者の場面を描いたときに、「自由を我等に」を製作したフランスの映画会社は、アイデアを盗用されたといって騒いだ。これに対してクレールは鷹揚に構え、偉大なチャップリンにアイデアを生かしてもらえるのは光栄だといったそうだ。しかし、この二人の関係は、一方的なものではない。クレールのほうも、チャップリンの映画からは多大な影響を受けている。この映画でも、ドタバタ喜劇風の演出の仕方や、最後に二人が肩を並べて歩いていく後姿などは、チャップリンの影響を見て取ることができる。だから、クレール側から一方的にチャップリンを責めるのはフェアではないというべきだろう。クレールはそれをわきまえていたからこそ、鷹揚な態度をとったのだと思う。





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