壺齋散人の 映画探検
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ゲームの規則(La règle du jeu)ジャン・ルノワールの映画



ジャン・ルノワール(Jean Renoir)の映画「ゲームの規則(La règle du jeu)」が公開されたのは1939年のことである。この年には第二次世界大戦が勃発した。映画は、そのことにもわざわざ言及している。冒頭の部分で、「この作品は第二次世界大戦の前夜が舞台であるが~当時の風俗を忠実に描写したものではない、人物はすべて架空である」と断った上で、ボーマルシェの「フィガロの結婚」の一節を引用しているのである。その一節とは、恋心の移ろいやすさを歌ったものなのだった。

二年前に作った「大いなる幻影」で、ルノワールは、ドイツとフランスとの戦争を描きながら、国と国とが戦争をしていても、人間個人同士は同じ人間として理解しあえる、というメッセージを発していたのだったが、この作品では、目の前に逼迫しつつある戦争に対して、まともに向き合おうとしないで浮かれ騒ぐばかりの人たちを描いている。浮かれ騒いでいる人たちとは、フランスの貴族をはじめとした上流階級の人々である。この人たちには、ドイツとの間で戦争が始まりつつある現実が何も見えてこない、彼らにとっては、日々の悦楽が最大の関心事なのだ。その日々の悦楽を彼らが追及する様子を、オペレッタ風に描き出すことで、ルノワールは強烈な社会風刺を狙ったのだ、そんなふうにも受け取れる。

そんなルノワールの意気込みは、彼自身がこの映画の中に登場し、しかも節目節目で重要な役柄を演じていることにも現れている。この映画の中では、重要な意味を持ったせりふが二つ語られるが、そのうちの一つはルノワールが演じるピエロ風の男の口から発せられる。オクターヴという名のその男は、「いまは誰もがうそをいう時勢だ」という言葉を発するのであるが、これは現実を見て見ぬふりをする当時のフランスの風潮を風刺した言葉だ。誰もが見て見ぬふりをしている間に、現実の方はどんどん進んでいって、ついには大戦争へとつながってしまったというわけであろう。

もう一つの言葉は、アンドレという飛行士の口から出る「ものごとにはルールがある」というものだ。アンドレは、友人の妻と不倫の恋をして、その女と駆け落ちをしようとする段になって、女の夫に挨拶をしようとする。女がそれを止めると、アンドレはこの言葉を叫ぶのだ。どんなことにもルールというものがある、それを無視しては、世の中はメチャクチャになる、という意味だろう。この言葉が、この映画のタイトル「ゲームの規則」につながっているのである。

或る意味で、この映画は上流階級のゲームを描いた作品だ。フランスの貴族ラ・シュネーが、自分の広壮な別荘で狩の催しを行う。そこにフランスの上流階級の人々が招待されて、ウサギ狩りをしたりドンちゃん騒ぎのパーティをしたりして楽しむ。そのパーティにアンドレという飛行士も招かれる。彼は上流階級の人間ではないのだが、大西洋横断飛行を成功させて一躍国民的な英雄になった。ところが、どういうわけか、ラ・シュネーの妻クリスティーヌと不倫の関係にある。そこを、二人の共通の友人であるオクターヴの計らいにより、アンドレもこのパーティに招かれるのである。招かれたアンドレは、クリスティーヌを連れ出して、一緒に駆け落ちしようとする。ところが、クリスティーヌは必ずしも心からアンドレを愛しているわけではない。

こんなシチュエーションのもとで、映画の中では、狩のシーンやパーティのドンちゃん騒ぎのシーンが次々と展開していくわけなのだが、その展開振りというのが、クレールの初期のオペレッタ風の映画を思わせるような、軽快な動きに彩られた実に楽しい雰囲気のものになっている。ルノワールがこの映画にこめた思いには二つあった。それは、ひとつは戦争を見て見ぬふりをするフランスの支配階級の人々に対する風刺であり、もう一つは、クレール並みの軽快なオペレッタ風映画を作ってみたいということだった。

しかし、こうしたルノワールの思いは、当時のフランス人にはまともには届かなかったようで、この映画は興行的には大失敗に終わった。観客はこの映画の中に、上流階級のみではなく、自分たちに対する批判を感じた、というのがその大きな理由だと解釈されている。そうなるとオペレッタ風の軽快な演出も評価されるには及ばなかったわけである。

こんなわけで、この映画では、狩のシーンやらパーティのシーンが延々と展開される。それ以外には何も出てこない。登場人物たちは、ラ・シュネーの広壮な別荘を舞台にして、ウサギやキジを追い掛け回したり、ドンちゃん騒ぎに興じたりしながら、その合間をぬって、不道徳な行為に現をぬかす。実際、この映画に出てくる人間たちは、誰も彼も皆、不道徳な人間として描かれている。フランスの上流社会というのは、こうした不道徳な人間たちによって構成されているのだ、ということを、ルノワールは執拗に描き出すわけなのだ。それゆえ、描かれた対象である上流階級の人間たちが、不愉快に思うのは無理ないが、どういうわけか、普通のフランス人たちまで、この映画に拒絶反応を示した。それほど、ルノワールの風刺が徹底していたのだろう。

不道徳な人間ばかりのなかで、唯一道徳的なのは、ガストン・モド演じる庭番のシュマシェール(Schumacher)である。名前からしてドイツ起源と思われるこの律儀な男は、自分の妻に言いよる男を見て、俄然奮発してその男の排除にかかる。その男を排除するためには、どんなことでもやってのける。その挙句、その男を追い掛け回しながらピストルを打ち続ける。それを見た上流階級の人々は、これも余興の一つだろうと受け取り、拍手喝采する始末なのである。

このシュマシェールの誤解によって、アンドレが射殺される。アンドレがクリスティーヌと一緒にいるところを見たシュマシェールが、それを自分の妻と妻に言い寄る男だと勘違いして、その男を射殺してしまうのである。こうなると、もともとアンドレを深く愛していたわけではないクリスティーヌも、寝取られ亭主の境遇にされたラ・シュネーも、厄介者がいなくなってせいせいした感じになる。そこで、彼らはこの事件を、不幸な事故に見せかけて、表沙汰にしないことにする。

ラ・シュネーが客一同に向かって、これは偶発的な事故なのですと説明する。すると客の一人が、これは「事故の新しい定義ですな」と皮肉る。映画はそこで終わる。

この映画は、第二次世界大戦の終了後に再上映され、その際には非常に高い評価を受けた。封切り当時とはうって変わった反応であった。





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