壺齋散人の 映画探検
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無理心中日本の夏:大島渚



ある種わけのわからなさが売り物の大島渚の映画の中でも、「無理心中日本の夏」は、とりわけわけのわからなさを感じさせる作品だ。一人の死にたがっている男と、いつもやりたがっている女が出会い、殺しあいをするつもりのやくざたちと奇妙な共同生活をする。やくざたちの間で、互いに殺し合いが始まると、死にたがっている男はどさくさにまぎれて殺してもらおうとするが、なぜか殺されるのは他の人間ばかりで、自分だけはなかなか死ねない。そのうち、外の世界では、わけのわからない連続殺人事件が発生しているとの情報が、やくざの一人が持っているテレビから伝わってくる。その犯人は「外人」で、自分たちのいる場所から近いところに潜伏していると知ったやくざたちは、その外人と連帯して、警察権力と戦う決意をする。こうして、映画のクライマックスは、死にたがっている男とやりたがっている女が、ついに結ばれあって、警察からの銃弾の嵐の中でセックスする場面で盛り上がると言う、なんとも奇妙な映画なのである。

死にたがっている男を演じているのは佐藤慶。半分ニヒルで半分知恵の足りないこの役柄は佐藤にもっとも似合っていたように見える。ニヒルはともかく知恵が足りないというのは、自分で死ぬ知恵がないと言う意味だ。死ぬことなんぞ、簡単なはずなのに、この男にそれができないのは、知恵が足りないせいだ。その証拠に、大勢のやくざたちは、死にたいわけでもないのに、いとも簡単に死んでいく。一方、いつもやりたがっている女は、オトコに捨てられたばかりということもあって、セックス日照りの状態にある。男が欲しくてたまらないのだ。この女を演じた桜井啓子は、フーテン仲間と一緒に町を歩いていたところを大島に見出されたと言う。顔の造作はイマイチ(ブスに同じ)だが、声といいボディといい、独特の迫力がある。その桜井が演じると、やりたがっている女とはどういうものか、なんとなくわかった気持ちにさせられる。

この男女を囲む人間像として、殿山泰司映じる初老のやくざ。ピストルをおもちゃと言うのが口癖だ。小松方正は日本刀を振りかざす古風なやくざを演じている。この男はあまりに凶暴なので、仲間の連中からいつも縛られている。この凶暴な男まで、やりたがっている女は誘惑する。要するに、男であれば、とりあえずはOKなのだ。戸浦六宏は、テレビ技術者の端くれらしく、壊れたテレビを修理できる。そのテレビを通じて、やくざたちは下界の出来事を知るわけだ。田村正和は、まだ17歳のチンピラで、組の兄貴分たちから銃の調達を命じられて、忍び込んできた。しかし、やっと銃が調達できたときには、自分の組の連中が壊滅したと聞き、もてあましたエネルギーを、警察にぶつけようとする。

これらの人物像が、相互にさまざまな葛藤を繰り広げ、大部分のものが死に絶えた後、上述した数人の男たちがなぜか、連続殺人事件の容疑者である「外人」と友好のよしみを結び、ともに警察権力に立ち向かおうとする。死にたがっている男とやりたがっている女もその企てに加わる。彼らはなんとか「外人」と近づきになる。その外人はまだ20歳の青年だった。その外人の青年がなぜ、大勢の日本人を殺したのか、説明は一切ない。説明抜きでいきなり、彼らと警察部隊との銃撃戦になるのだ。

しかしそこは多勢に無勢、彼らはつぎつぎと死んでいく。その挙句に、死にたがっている男とやりたがっている女が、二人で取り残されるわけだ。銃弾の飛び交う緊張した場面の中で、死にたがっている男にやりたいという意思が始めて芽生える。女はそれを恍惚の表情で受け止める。かくして、警察の放つ銃弾の中で、二人はとろけるようなセックスにふけるのである。

そんなわけで、この映画をラストシーンから見れば、警察権力を嘲笑しているとしか見えない。警察権力を嘲笑するのは反体制的行為であるから、この映画が反体制映画と評されたのには十分な理由があるわけだ。一方、この映画では、登場人物たちが、それこそゲームの駒のように次々と死んでいく。その過程は結構暴力的に見える。そんなところからこの映画は、暴力礼賛映画とも言われた。しかし、それ以上に、死にたがっている男といい、連続殺人事件の容疑者である「外人」といい、彼らの動機は全く触れられていない。死にたがっている男が死にたいのは、ただわけもなく死にたいのであるし、外人がライフルをぶっ放して人を殺すのは、ただわけもなく人を殺したいだけなのだ。彼らにはそれ以外の、腑に落ちる動機はない。彼らの行為は、そういう意味合いにおいて、不条理なのだ。それ故この映画は、不条理の映画とも言われたわけである。

この映画の最大の見所と言えば、それはやりたがっている女の生命力ではないか。この女は映画の冒頭で出てくるや、パンツとブラジャーを脱いで川に捨てる。川には日の丸をいただいた男たちが平泳ぎをしていて、女に向かって落とし物だと注意する。女は、落とし物ではなくわざと落としたのだと答える。こうして、いつでもOKの状態にしておくのだと言うわけである。

こんな調子でこの女は、映画の全編を通じて、男という男を誘惑してやろうとするのであるが、普通なら淫猥にうつるこうした行為も、この女にあっては、生命の自然な発露として見えてくるから不思議だ。この女の生命力の前では、男たちのいきがりは、せつなっぺのようにしか聞こえない。





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