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山際永三「狂熱の果て」:田吾作趣味の若者たち



山際永三の1961年の映画「狂熱の果て」は、戦後復興の過程で生まれた新しい若者世代を描いた作品。六本木族という言葉がすでにそのころに普及していたかどうかは別として、六本木族という言葉がイメージさせるような、成金趣味の若者の刹那的な生き方がこの映画のテーマである。ところがそんな若者たちの生き方が、今日の視点から見ると、かなり恰好が悪い。文字通り成金の子息らが、金にまかせて勝手放題をつくすというのが、いかにも頭の悪さを感じさせ、カッコよくないのである。

戦後復興から高度成長期にかけては、こういうどうしようもない輩が大手をふるっていたものだ。そんな連中を小生は、田吾作趣味と呼んでいる。石原慎太郎などは、さじづめ田吾作のシンボルといってよかろう(本人は「東京王」と称しているらしいが)。なぜ田吾作かというと、かれらには主体性がまったくなく、周囲の雰囲気に流されて惰性的に生きているからだ。この映画の中でも、若い連中が集団で踊る場面が出てくるが、どうみても、粋なダンスというより、やぼくさい盆踊りにしか見えない。

映画は、一人の若い女を中心に展開する。彼女の家は複雑な環境で、父親が虐待を苦しんで自殺したりする。家には、その父親が世話をしてすみこませている青年がいるが、それが母親の情夫になったうえに、娘まで強姦する始末。一応K大の学生で、その学生仲間というのが、毎晩六本木界隈でバカ騒ぎをしているのである。

その騒ぎの末に、二人の老人をひき殺して、その罪を関係のない男になすりつける。その男はトランぺッターで、遊び仲間とつるんでいたところを、いいように利用されるのだ。そのトランぺッターに主人公はいささか惚れているらしく、自分を強姦した男とか遊び仲間のスポンサー格の男を殺そうとしたりする。

という具合で、若い連中の刹那的な生き方を描いているというだけで、たいしてインパクトのある作品ともいえない。こんな作品が、当時の日本では、ヌーヴェルヴァーグなどといって持てはやされたということらしい。




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