壺齋散人の 映画探検
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鬼畜:野村芳太郎




野村芳太郎の1978年の映画「鬼畜」は、松本清張の同名の短編小説を映画化したものだ。テーマは子捨て・子殺しだ。清張がこの小説を書いたのは1957年のことで、それを20年もたった時点で映画化したことに、なにか特別の理由があったのか、よくはわからないが、この手のテーマは、時代にはあまり関係がないのかもしれない。21世紀に入っても、「誰も知らない」のような子捨てをテーマにした映画が作られていることからも、そう思われないでもない。

子捨てとか子殺しといったテーマは、この世の中でもっとも陰惨なものだ。とりわけその陰惨な行為を実の親が我が子に対して行う。どんな人間でも、またどんな事情があっても、同情の余地が全くないばかりか、そんな人間は、人間とは言われない、鬼畜という言葉以外に、その者を言い表す言葉が見当たらない、そんな気持ちにさせられる。

この映画は、そんな鬼畜のような者の、子捨て・子殺しを描いたものだ。子殺しという、ただでさえ陰惨なイメージを掻き立てるテーマに加え、子殺しをする当人に良心のかけらもないように見えるところが、不気味なほどグロテスクだ。「誰も知らない」では、子を捨てた母親は画面に登場しないが、この映画では、子を捨てた母親や、子殺しをする父親たちが出てきて、醜悪な利己心を披露する。その醜悪な生き方を見せられたものは、言葉を失うほど当惑し、目をそむけたくなるほどの嫌悪感にかられる。

映画の筋書きはいたって単純だ。三人の子を産んだ妾が、その子供たちを男に押し付ける。押し付けられた男は、女房から子どもを始末しろといわれ、そのとおりにする。三人の子どものうち、一番下の幼児は、育児放棄の果ての栄養失調と、女房による意図的な行為によって殺されてしまう。二番目の子で四歳の長女は、東京タワーに連れていってそこに置き去りにしてしまう。この子は、自分の親の名も言えないほど幼いので、永遠の捨て子になるほかはない。

そして一番上の子で、六歳になる長男は、知恵もついてきて、そこらへんに捨ててくるわけにもいかないので、毒を飲まして殺すか、海辺の断崖絶壁から突き落とすか、とにかく早く殺せと女房から急き立てられる。急き立てられた父は、長男を連れだして新幹線に乗り、熱海で降りて、錦ヶ浦の崖から突き落とそうとする計画を立てるが、気の弱い男には簡単には実行できない。そこで関西方面までさ迷い歩いたあげく、能登半島に流れ着いて、そこの海岸の絶壁から、眠っている長男を放り投げるのだ。

父親は、自分の意思から進んで子どもたちを殺したり捨てたりしたわけではないように描かれているが、女房の意思に逆らえず、その言いままになったという点では、自分の手で殺したも同然だというふうに伝わってくる。そんな父親に対して、子どもたちが心から頼っているところがやるせない。とくに長男は、命を助けられたあとの警察の取り調べに対して、最期まで父親の名や彼から受けたことを言わず、かばい続けるのだ。クライマックスの場面で、父親と対面した長男は、この人は父ちゃんじゃない、と言うのだが、それは父親をかばってのことだと伝わってくる。長男がそんなに父親をかばうのは、こんな父親でも、自分にとってはこの世でただひとり、頼るべき存在だからだ。

父親はそんな子どもの淡い期待を裏切ってまで殺そうとしたわけだが、それについてどれほどの意識を持っていたかというと、ほとんど惰性に流されていたとしか思えない。要するに自分のしていることの意味が、本当にはわかっていないのだ。

この父親が、旅先の宿で、長男に向かって自分の子供時代のことを語る場面がある。この父親は、六歳の時に天涯孤独の身になり、辛酸を舐めながら生きて来た。天涯孤独の身になったのは、親に捨てられたからだ。自分自身が親に捨てられた境遇だから、同じことを、つまり子捨てを、自分の子にしても良心を痛めないでいられる、そんなふうに伝わってくる。これは、親から暴力を受けながら育った人間が、自分の子に対しても同じことを繰り返すのと同じメカニズムなのだろうか、と考えさせられる。

緒方拳演じる気の弱い父親にはっぱをかける女房(岩下志摩)の目つきがすごい。この女は、亭主を寝取った妾が憎いあまりに、その妾の生んだ子どもたちまで憎くなり、ついには子どもたちを「始末」するよう亭主に命じるのだ。

清張の原作は、実際にあったことを下敷きにしているそうだ。清張はその話を検事から聞いて、それに一部着色を加え小説にしたそうだ。1957年のことだから、日本はまだ戦後復興をなしとげておらず、国全体が貧しかった時代だ。そんな貧しい時代でも、子捨てとか子殺しといったことは、稀有のことだったにちがいない。そのありえないようなことが本当にあったというので、清張は清張なりに驚いたのではないか。原作にも映画にも、そんな清張の驚きを感じることができる。




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