壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板




叫びとささやき(Viskningar och rop):イングマル・ベルイマン



死や信仰などをめぐる人間の精神的な危機を描き続けてきたベルイマンが、この「叫びとささやき(Viskningar och rop)」では、生きることの罪深さとでもいうべきものを描いている。「生きることの罪深さ」というと、我々日本人には理解しがたいところがある。我々日本人にとって、この世で生きているということは、縁があって生きているということであり、したがった有難いこととして受け取られる。決して罪深いなどとは思われない。しかし、キリスト教文化にあっては、人間は原罪を背負ってこの世に生まれてきたものと信じられている。人間がこの世で生きることはだから、生まれながらにして罪深いことなのだ。

それ故、この映画を見た多くの日本人は、そこに根本的な違和感を抱いただろう。この映画に出てくる人々(三人の姉妹)は、生きることに疲れ、かといって死ぬことを積極的に願うわけではなく、ただひたすら生きることを呪い続ける。神を呪うのではない。自分自身が生きていることを呪うのだ。何故なら、自分が生きていることが、自分自身にとって罪深いことのように、彼らあるいは彼女らが思っているからだ。そういう感覚は我々日本人には到底理解できないように思える。その理解を超えたことがらが、この映画の中で自然なことがらのように展開されているのである。

映画の主人公である三人の姉妹が、親の残した広壮な邸に集まっている。そのうちの次女が死の床についている。長女と三女が、同胞の死を見取るためにやって来たのだ。やがて次女は苦痛にもだえながら死んでゆく。彼女はどうやら子宮がんの末期にあって、耐え難い苦痛にのた打ち回りながら死んでゆくのだ。牧師がやってきて、次女の死を確認する。牧師は言う、残された私たちのために祈ってほしい、私たちの苦しみをあの世に持ち去ってほしい、あの世にいったら神に話してほしい、私たちの罪を許してほしい、と。つまり牧師は、聖職者として死者の鎮魂をするよりも、残された生者のために神に取り計らってほしいと死者に懇願するのである。

葬儀のために長女と三女の夫たちもやってくる。二組の夫婦はともに愛が冷え切っている。妹の死に動転した長女は、精神に異常をきたす。彼女には、妹が生きることの罪深さから解放されたことが羨ましい。彼女には、これ以上生き続けることが耐えられない。そこで、夫の目の前で自殺するふりをする。だが、どうしても死ねない。生きることは罪深いことではあるが、したがって死ぬことによってその罪深さから解放されたいのではあるが、どうしても死ぬことが出来ない。そんな姉に、三女がやさしく接する。子供の頃のように、仲良くしましょうとささやく。しかし姉は、やさしさが耐えられないと言う。そんなもので、生きることの罪深さが軽減されることはないというかのように。

姉の狂乱振りに接して動転した三女は、次女の亡骸に取りすがって救いを求める。彼女には次女たる姉が、死の床からよみがえるように見える。その姉に向かって「あなたを愛してなどいないから、このまま死んでちょうだい」と呼びかける。あなたが死に切れないから、生きている私たちも安心ができない。あなたのために、生きることの罪深さがますますつらく感じられる。そういうのである。

結局、次女が死んだということのほかに、なにも変らないままで、映画は終わる。長女の意向で遺産の処理がなされ、広壮な邸は売り払われることになる。最後までこの邸で次女に仕えてきたメイドのアンナは解雇されることになる。最後まで次女を支え続けてきたのは、同胞たちよりも、このアンナだったのである。

イングリッド・チューリンが長女を演じ、ハリエット・アンデルソンが次女を演じ、リヴ・ウルマンが三女を演じた。三人ともベルイマン映画と縁の深い女優たちである。最も迫力があったのはイングリッド・チューリンで、彼女は自殺しようとして、ガラスの大きな破片で自分の陰部を切り裂くのだ。一方、リヴ・ウルマンのほうは、人間の悲哀の感情をよく表現していた。彼女には、感情の繊細なひだのようなものを表現する才能があるようだ。ハリエット・アンデルソンは、「不良少女モニカ」で感情豊かな少女を演じていたが、この映画はそれから20年がたっており、「モニカ」の面影は認めるのがむつかしい。

ベルイマンの映画の主人公たちは、多くの場合上流階級の人々だ。この映画でも、三人の姉妹は広壮な邸で育ったということになっており、長女と三女の夫はそれぞれスウェーデンのエリートたちである。死とか信仰の危機とか宗教的な問いとか、そうした精神的な事柄は、上流階級のエレガントな人々でなければ相応しくないと考えて、こうした人々を意図的に登場させているのか、ベルイマンの意図はよくわからぬが、ひとつ面白いと感じるのは、スウェーデンのような小さな国でも、巨大な財産を所有する豊かな階層が存在するということだ。その富が、どこから、またどのように、こうした人々のもとに集中されるのか、そのメカニズムが興味ある。





HOMEベルイマン|次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである