壺齋散人の 映画探検
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ソビエト映画「炎628」 独ソ戦をベラルーシの少年の視点から描く



1985年のソビエト映画「炎628(Иди и смотри エレム・クリモフ監督)」は、独ソ戦勝利40周年を記念して作られた。独ソ戦を、ベラルーシの一少年の視点から描いた作品。ベラルーシにおける独ソ戦といえば、ノーベル賞作家アレクシェーヴィチが「戦争は女の顔をしていない」で描写した女性の戦争参加が思い起こされる。こちらの映画は、少年の戦争参加をテーマにしているわけで、独ソ戦が、女や子供まで巻き込んだ凄惨なものだったということがよく伝わってくる映画である。

ある村の少年が、地中から小銃を掘り起こしたことをきっかけに、自分もその小銃を持って対独戦争に参加しようと決意する。母親は狂乱状態で阻止しよとするが少年の決意はかわらない。大人たちに交じって戦場に赴く道を選ぶのだ。だが、少年には過酷な未来が待っていた。かれが少年であることを理由に、部隊の指揮官はメンバーからはずす。そこで少年は単独行動をする。そのうち、一人の少女と行動をともにしたり、ほかの村の人に出会ったりする。その過程で、自分の家族が殺されたことを知ったり、部落の住民が皆殺しになったことを知る。ただ、生き残ったものもいた。その人たちのために食糧調達の仕事に従事したりする。

少年は、その仕事の最中に出会った近隣の部落の男と行動をともにする。その部落にドイツ軍がやってきて、残忍にふるまい、あげくは住民を教会の中に押し込めて焼き殺すようなことをする。ドイツ兵の表情は人間とはとてもいえず、人殺しを楽しんでいる。そんなシーンを見せられると実に不愉快な気分になる。この映画の目的は、独ソ戦におけるドイツ軍の非人間的な残忍性と、それと戦うロシア人の英雄的な振る舞いを描写することで、独ソ戦の意義を国民に考えてもらうことにあると思うので、そうした描写も映画としては必要なわけである。

映画の最後のシーンは、反撃に成功したソ連軍が、ドイツ兵を捕虜にしたうえで、かれらに加えられた残忍な行為への復讐をする場面を写す。捕虜を虐待するのは、ウィーン条約で禁止されており、いかなる理由があろうとも、正当な裁判なしで処刑したりはできないはずだが、ドイツ軍の残虐さがあまりにも度を越しているので、それに復讐したいというロシア人の気持ちはわからないでもない。

それにしても、ドイツは戦後四十年たっても厳しい非難にさらされ、21世紀に入っても、ナチス・ドイツの残忍さを糾弾するような映画が続々と作られている。そんな風潮にドイツ人はうんざりしているだろうが、ドイツにひどい目にあわされた側は、そう簡単に忘れることはできない。そこは日本とは違うところだ。日本は、天皇も訴追されなかったし、戦争責任もきびしく問われなかった。日本に侵略された近隣諸国が、ドイツに侵略された国々のようには、戦争犯罪を強く追及することがなかったからだ。

そんなわけで、この映画は、第二次大戦における戦争犯罪について、深く感じさせるものがある。なお、独ソ戦でナチス・ドイツに殺されたロシア系住民は、一説では2600万人とも言われる。なぜそんなにも多くの人間が殺されねばならなかったか。映画はそのヒントを与えている。ナチスは、共産主義者とユダヤ人を殲滅すると言っていた。ソビエトの人民は、ナチスにとっては共産主義者に他ならなかったから、ユダヤ人同様無差別殺戮の対象になった、そんなふうなメッセージが聞こえてくるのである。




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