壺齋散人の 映画探検
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スリーパー(Sleeper):ウディ・アレンのSFコメディ



ウディ・アレンの1973年の映画「スリーパー(Sleeper)」は、1973年に凍結保存された男が200年後に目覚めるという話だ。彼が目覚めた200年後のアメリカは、独裁者が支配する全体主義社会ということになっている。それがオーウェルの「1984」の世界を想起させる。オーウェルの小説の主人公たちは、その世界で窒息させられてしまうわけだが、アレンのこの映画の主人公は、全体主義社会に挑戦し、その支配者たちを粉砕するということになっている。そこがオーウェルの悲観論とは異なったところで、コメディに相応しい幕引きになっている。コメディはこうでなくちゃ、というわけであろう。

未来の社会をコメディ・タッチで描いているので、SFコメディとでもいったらよいのだろう。この映画が作られた1970年代は、宇宙開発の進展などを背景に科学技術への信仰が蔓延していたこともあって、SF物が多く作られた。アレンはそれをコメディ・タッチで作ったわけだが、そういう発想をするものは殆どいなかったので、アレンの着眼点はすぐれていたといってよい。

この映画の中の未来の全体主義社会は、どうもスターリン体制下のソ連をモデルにしているようだ。ナチス・ドイツではなく、何故ソ連なのか。それには、この映画が参考としたと思われるオーウェルの「1984」がスターリン体制への皮肉であったということもあるが、基本的にはユダヤ人であるアレンの強い反共意識が働いているのであろう。アメリカのユダヤ人コミュニティは、アレンの世代までは、最もリベラルな自由主義を信奉していたのである。その自由主義の精神が、前作の「バナナ」では、カストロの社会主義を痛烈に皮肉っていたわけだ。

未来の社会との時空を越えた往来という発想は、従来はタイム・マシーンを媒介にしたものが多かったが、この映画では凍結保存がそれを媒介している。このことの背景には、生命技術が飛躍的に進んで、たとえば精子とか卵子の凍結保存が実用化されてきた経緯も働いているのだろう。精子や卵子が冷凍保存できるのなら、生体をまるごとそのまま凍結するのもありうる、そういう発想があっても不思議ではない。もっとも、その後の生命科学の進化にもかかわらず、2016年の現在においては、まだ人をまるごと凍結保存する技術は開発されていないらしい。されたとしても、その検体になることを希望する人はいないだろう。ともあれ、タイム・マシーンなら過去へさかのぼることも可能だが、凍結保存は未来に向けての一方的な働きかけである。

未来の地球の姿を目撃する話としては、「猿の惑星」がある。これは1960年代に作られた映画だが、宇宙遊泳をして久しぶりに地球に戻ってきた人間が、猿に支配されている地球の姿を見る。この人間は宇宙旅行から帰還したという点では、タイム・マシーンの延長のような話だったわけだが、その未来の社会というのが、人間にとってのディストピアであったという点が、「スリーパー」と似ている。「猿の惑星」では異種の生物たる猿が人間を支配しているが、「スリーパー」では、独裁者が人民を支配している。その手段は、人民が独裁者に忠実になるよう洗脳をほどこすことだ。

ウディ・アレンもやはり洗脳される。だが彼の女友だちの努力があったりして、逆洗脳を施される。人間というものは、脳の中身を入れ替えさえすれば、どのようにも変化できる、というふうに捉えられているのである。面白いことに、このディストピアでは、人造人間たちが労働者階級を形成している。彼らは人間の僕として、人間の言うことは何でも聞くし、また必要に応じて、頭を初め体のパーツを自由に交換することができる。アレンもあやうく頭を交換されそうになるのだ。

この映画の中のロボットの描き方は楽天的に過ぎると思う。ロボットは人工知能の最たるものだが、それがいつまでも人間の思い通りの行動をするとは保証できない。人工知能がある程度の発展段階に達すると、それは自立的な進化を開始し、人間の思惑を超えた存在になる可能性が大きいと、あのホーキング博士も警告している。人工知能の深化を今の調子で進めれば、200年後にはロボットが自立している可能性のほうが大きい。そうなれば、ロボットが人間を支配するようになっているかもしれず、もしそのとおりのことがおきれば、「猿の惑星」と全く同じ世界が実現するわけだ。恐ろしいことである。

もっとも、1973年時点のアレンには、そこまで想像力が及ばない。200年後の世界は、全体社会であるという点を別にすれば、基本的には今の地球と変わらない世界だ。人間自身も多少の進化をし、機械の力を借りなければセックスできないようになっているが、まだ性欲がなくなったわけではない。ということは、男女の性愛も健在だ。その性愛があるおかげで、人間の人間らしさも失われずにいる。

生命科学の進歩という点では、クローン技術の話も出てくる。独裁者が爆破暗殺され、その後に彼の鼻が残された。その鼻をもとに、クローン技術を適用して独裁者をよみがえらせようとする試みが行われる。どういうわけか、その研究にアレンが女友だちとともに携わる。アレンが介入することで、独裁者がよみがえることはなく、ついに反政府勢力が権力を握るにいたる。それを反政府勢力を応援する女友だちは喜ぶのだが、アレンには喜ぶ気持になれない。彼は権力というものそれ自体がいやなのだ。

映画のおまけみたいなところで、「日本製の安物」とか、「ドイツ人は優秀だ」とかいった言葉が出てくる。こういう言葉を聞くと、時代というものを感じさせられる。たしかに1970年代までは、日本の技術はまだ軽蔑の対象だった。





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