壺齋散人の 映画探検
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サイコ(Psycho):アルフレッド・ヒッチコック



アルフレッド・ヒッチコックの映画「サイコ(Psycho)」は、今日サイコ・スリラーと呼ばれている映画のジャンルを確立した作品である。1960年にこの作品が公開されて以来、すべてのサイコ・スリラー映画はこの作品を手本にしているといってよい。ということは、この映画によってかなり強固なステロタイプが成立したということだ。そのステロタイプとは、人間の精神異常は他の人間の気晴らしになりうるという信念をさす。ステロタイプいうのは、ある種の信念無しには成立しないものなのである。

スリラー映画というのは、事柄の意外性が生命である。事柄が見ているものの思惑を超えてとんでもない方面へと展開してゆく、その意外性が見ているものに強烈な効果を及ぼすものだ。だから映画作家は、この意外性を演出する為に智恵を使うことになる。事柄というものはそれ自体では、とんでもないほどの意外性を帯びることはないので、それに意外な外見を付与するには大変な苦労がいる。ところが人間の中にはそれ自体で、意外性を帯びた人たちがいる。精神異常者、つまり心を病んだ人々だ。彼らには普通の人間の尺度が通用しない、普通の人間にはとうてい想像できないような異常性に纏わりつかれている。だから彼らをテーマにして映画を作れば、そんなに苦労しなくとも、スリル満点の映画ができる。そこが、サイコ・スリラーが映画のジャンルとして成立してきた所以だと思う。

ヒッチコックにはもともと、心理学への強い関心があった。「白い恐怖」は人間の潜在意識をテーマにしたものだったし、「めまい」は無意識のうちに人間の行動を制約する神経症状をとりあげていた。前者にはフロイトの精神分析の影響が認められ、後者には行動心理学の影響が認められる。どちらも、人間の無意識な精神状態を取り上げたものだ。フロイトはこの延長上で、異常な心を、映画のなかで取り上げることで、それ自体がスリラーになることを発見したのではないか。異常な心、つまり病んだ心は、「正常」な人間にとっては理解不能なところがあり、したがってそれ自体がスリリングなものだ。彼らは、その存在自体がスリラーの種となるのだ。

異常な心の人間を取り上げればそれ自体がスリラーになるので、映画作家はたいした智恵を使わないでも、結構面白いスリラー映画を作ることができる。それが今日にいたるまでスリラー映画が大量に生産されてきた一番大きな理由だろう。しかし優れた映画作家であるヒッチコックは、異常な人間をテーマにしながらも、それの醸し出す意外性に安住するのではなく、事柄的な面でも意外性を追及することで、非常に質の高いスリラー映画を作ろうとした。その結果この映画は、人間の意外性に事柄の意外性が加わって、実に数奇で意外な世界を作り出しているのである。

簡単な筋書きを言うと、ある若い女がたまたま泊ったモーテルで、そこを経営している若い男に殺されたというものだ。そこで女は何故殺されねばならなかったか、それが映画のテーマとなるわけだが、ヒッチコックは女には殺されねばならなかった理由があり、女を殺した男にもそうせざるを得なかった理由があった、と観客に納得させることで、これが単なる偶発的な事件を描いたのではなく、運命の意外な必然性がもたらした壮大な悲劇なのだと思わせるのである。

女がモーテルに泊った理由は、彼女が逃亡の身だったからだ。彼女は他人の金を四万ドルも盗んで逃亡していたのであるが、彼女がその金を盗んだのは、恋人と幸福な結婚をしたいからだった。その女をモーテルの男が殺したのは、彼が精神異常者だったからだ。彼は分裂病患者ということになって、自分自身と自分の母親とが自分の人格の中で共存していた。その二つの人格のうち自分自身が女に恋心を感じる、すると母親の部分がそれに嫉妬をする。息子がとられることを恐れた母親は女から息子を守ろうとして彼女を殺すのである。だから、殺された側にも殺した側にも、それ相当の理由があって、それらがかちあうことで、この悲惨な事件が起きた、それはある意味不可避なことだったのだ、そう観客に思わせるわけである。ただスリル感をもたらすだけでなく、その背後に知的な要素を潜めておくことで、映画の印象をより深いものにする。そこがヒッチコックのヒッチコックらしいところといえよう。

映画のなかで精神異常者を前面に押し出したのは、これ以前にもあったかもしれないが、精神異常者を複合的に描いたものはなかったのではないか。この映画の中でアンソニー・パーキンス演じる精神異常者は、ただ気味が悪いというだけでなく、非常に危険で邪悪な存在だというイメージを与える。こんな映画を見せられたら、普通の人は精神病の患者に対して強い偏見を抱くようになる可能性が高い。そういう点では、この映画には精神疾患に対するネガティブ・キャンペーンみたいな面も指摘できる。こんな風に描かれたら、当の精神病患者たちは、社会からのネガティブな反応におびえなければならなくなるだろう。

もっとも気になるのは、最後の部分で精神科医を登場させて、犯人は精神病のために判断能力がなく、したがって刑事責任を追及できないと言わせていることだ。これは犯罪ではなく、ある種の天災だと思ってあきらめるしかない、どうもそんなふうに言っているように聞こえる。





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