壺齋散人の 映画探検
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ピエル・パオロ・パゾリーニ「ソドムの市」:史上もっともスキャンダラスな映画



ピエル・パオロ・パゾリーニの1975年の映画「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma)」は、世界の映画史上もっともスキャンダラスでかつグロテスクな映画である。その過激なサディズムの描写があまりにも常軌を逸しているので、上映禁止を求める動きがヨーロッパじゅうに広がったほどだ。また、この映画は、サドの未完の小説「ソドムの百二十日あるいは淫蕩学校」を原作としており、架空の話だという見せかけをとってはいるが、舞台をかつてファシストの亡命政権のあった北部イタリアのサロに設定していることから、ファシストによる児童虐待と匂わせるところもある。それがファシストたちの逆鱗に触れて、パゾリーニは無残な死に方をしたと推定されている。たしかに、この映画には、ファシストを怒らせるほどの迫力はある。その点ではパゾリーニは羽目を外しすぎたかもしれない。だからといって、ファシストの怒りを正当化することにならないとは思うが。

サロに君臨する四人の男たち(公爵とか大統領とか呼ばれている)が、大勢の少年少女を誘拐してきて、かれらを対象に性的倒錯や虐待行為に耽り、かれらの苦痛に満ちた表情を見ることに至上の愉悦を感じるといったような内容である。その倒錯ぶりが、サディズムそのものなのだ。全体は四つの部分にわかれ、それぞれ、地獄の入り口(Anteinferno)、変態の境域(Girone delle manie)、糞尿の境域(Girone della merda)、血の境域(Girone del sangue)と題される。この構成は、ダンテの「神曲」地獄編を参考したというが、それはただの言い訳で、原作の内容をいくつかのモチーフごとに分類したつもりだろう。

全編がサディスティックな変態行為をあからさまに描写することからなっており、見ていて反吐が出そうになる。変態の境域では、少年少女を裸にして、性的な変態行為の限りをつくし、気に入らぬ少女は首をかき裂いて殺す。ある男が少女を鶏姦しはじめると、衆道趣味を持った男が興奮して尻をむき出し、おれも掘ってくれとねだる。糞尿の境域では、少年少女たちの糞尿をためておいて、それを彼らに食わせる。また、公爵自ら皆の目の前で糞をたれ、それを食えと少女に迫る。また、自分の顔のうえに少女をまたがらせ、顔の上に小便をたれろと迫る。血の境域では、文字通り流血の惨事が展開される。ただ殺すだけではなく、最大限の苦痛を与えたうえで殺す。たとえば舌を抜いたり、目玉をえぐり取ったり、頭の皮を剥いだりといった具合だ。そんな画面が延々と続くわけだから、さすがにまともな心臓では見ていられない。

映画には女の狂言回しが二人出てきて、そいつらが支配者たちの変態性欲を掻き立てる役割を果たす。その女たちを含めて、この映画の中の虐待者たちは、自分たちが悪いことをしているという自覚がない。ごく当然のことをしているのであり、自分たちが変態性欲を追及するのは自然の権利なのだと考えているフシがある。それだけに不気味さは増すのである。

性的な乱痴気騒ぎとかスカトロジーへの趣味とかは、パゾリーニ映画に共通する特徴であり、この映画に限定したことではないが、その描写はあまりにも常軌を逸しており、見るものに嫌悪感を催させるテイのものである。こんなめちゃくちゃな行為を、ほかならぬファシストたちがやっているように見せかけたというので、ファシストが逆上したわけである。パゾリーニとしては、この映画が原因で殺されたようなものなので、いささか不本意を感じたかもしれないが、しかし自分の趣味に殉じたともいえるので、未練はなかったかもしれない。




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