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赤い橋の下のぬるい水:今村昌平



「赤い橋の下のぬるい水」は、潮吹きと呼ばれる異常体質の女とリストラで首を切られた冴えない男との切ない恋を描いた映画だ。潮吹きというのは、筆者は出会ったことがないので実感がわかないのだが、女が性交時に出す愛液の量が異状に多いために、あたかも潮が吹いているように見えることだという。この映画の中の潮吹き現象は、生半可なものではなく、抱き合っている男女の周辺が水浸しになるほどなのだ。これは、正常と異状との境界を踏み越えて、明らかに異状の領域に大きく傾いているので、それを見ているものは、そこにシュールなものを感じる。そのシュールさが男にも気持ちがよいらしく、この男女は潮吹きの水を通じて深く結ばれるのだ。

そんな男女がどのようにして出会ったか。男(役所広司)は失業して職探しをしている折に、隅田川のテラスにテントを張った老人タロー(北村和夫)と出会い、その老人から宝の埋蔵場所を教えられて、是非それを取りに行けと勧められる。男がしょげているのを見て老人は、「人生はちんぽがかたいうちだ」といって励ますのだが、励まされた男はいまさら人生を考えてもしようがないとこぼす。すると哲学者を自称するタロー老人は、「考えなくなったら人間じゃないぜ」とアドルノのようなことをいい、男に人生のなりなおしを勧めるのだ。男は、家族まで失いそうになっており、半分やけっぱちな気分に陥っているのだが、老人が死んだことをきっかけに、老人に教えられた宝の埋蔵場所に向かう。潮吹き女(清水美沙)とは、その埋蔵場所がある土地で出会うのだ。

その土地は能登半島の付け根の氷見というところの、川にかかった赤い橋があるところだった。ここで偶然女と出会った男は、橋の袂の古い家のなかに招き入れられると、いきなり女からセックスを迫られ、応じてしまう。すると女が膨大な量の水を潮のように噴出して、それが一筋の流れとなり、川の中に流れ込んだ。女の体から出てきたぬるい水は、不思議な効用があるようで、その水の溶けた川の周囲には、大勢の魚が集まってくるのである。

二人のセックスはその後何度も繰り返される。女は性欲がたまると体内に水があふれ、そのはけ口を求めてセックスをしたがるのだ。セックスをすることで、体内にあふれた水を放出できる。胎内に水がたまったままでは、苦しくて仕方がないのだ。だから彼らのセックスはハードそのものだ。女が男の膝の上に跨って、男の一物を下からくわえ込む。清水美沙は、「うなぎ」の中での性交シーンでも、下つきぶりをみせていたが、この映画の中でもやはり下から男を迎えている。迎えられた役所のほうは、「うなぎ」のなかでは清水とセックスすることはなかったが、この映画の中では心行くまで彼女とのセックスを楽しんでいる。役所も役者冥利につきたであろう。

結局タロー老人の言っていた宝物はなかった。老人は、別の理由で男をそこに行かせたかったのだ。男の言及した埋蔵場所の家には一人の老婆が住んでいるのだが、その老婆というのが、老人の昔の愛人だったのである。その愛人と、自分で会うことの出来ない老人が、男を通じて自分のことを愛人に伝えてほしくて、ありもしないうそを言って、男をそこに行かせたというわけなのだった。

その男が、潮吹き女にとっては、殺されてしまった自分の愛人と瓜二つなのだった。それで男を見ると女の体内には欲情の高まるあまりに水がたまり、そのはけ口を求めて男にセックスをせまったというわけなのだ。

このようにこの映画は、それぞれの思惑が交差することから始まったのだが、そのうちに、男と女が結ばれるところでハッピーエンドとなる。実はこの女も、タロー老人の孫だということがわかる。つまり男は、タロー老人のために二重によいことをしたわけである。昔の愛人であった老婆に老人の最後を伝えてやれたこと、老人の孫に愛を与えてやったことだ。

老人は死ぬ前に、人生は終わりよければすべてよし、とシェイクスピアの言葉を言う。自分に関してはその言葉通りになったわけである。

最後のシーンで女の言う言葉が意味深い。あなたが好きだからわたしの水を出して、と言うのだ。年のせいもあって、なにかと立たなくなってきた男も、こんなふうに迫られると、自然と立つのを覚えるのである。





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