壺齋散人の 映画探検
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破戒:市川崑



市川崑の映画「破戒」は、島崎藤村の同名の小説を映画化したものだ。この小説を筆者は高校生くらいで読んだのだが、やたら暗いという印象が残っているばかりで、内容はあまり覚えていない。映画を見たところ、記憶の中の暗さよりもっと暗いといった感じで、このように暗い映画がよく商業映画として成立できたと妙な感心をしたほどだ。

テーマは部落差別である。部落の出身であることをひた隠しにして生きていた青年が、決して己の出自を明らかにしてはならぬとの父親の戒めを破って、自分が部落出身者であることを告白し、土下座してあやまるというのがこの小説の筋書きだが、映画も概ねそういう筋書きにそって進んでいるといってよいのではないか。詳細を忘れてしまったので、比較できないのが残念だが、小説の雰囲気をよく再現しているようである。

市川がこの映画を作ったのは、1962年のことで、その当時は同和対策がようやく社会的関心を集め、法整備が始まろうとするときだった。だから市川のこの映画には、同和対策の理解を進めるためのプロパガンダの意味もあったようだ。登場人物たちがやたらと人間の平等とか、尊厳について理屈を振り回して議論するのだが、それは島崎の小説にもあったのかもしれぬが、市川としてはこういう場面を強調することで、人々の差別意識を啓蒙しようとしたのかもしれない。

市川は、「炎上」でも、登場人物たちにこうるさい理屈を振り回させていたが、それは原作者の三島にそういう傾向が強いので、市川はそれを再現しているだけだと思っていたが、この映画を見ると、市川はどうも根っからの理屈好きなのかもしれないという印象が伝わってくる。それほどこの映画も理屈に走っているのである。なにしろ、小学校の生徒たちを前に、こむつかしい理屈を振り回すほどなのだ。

瀬川丑松を演じた市川雷蔵は、「炎上」での若い僧侶役でもいじいじした印象を振りまいていたが、この映画ではそれ以上にいじいじしている。雷蔵といえば、眠狂四郎のようなニヒルな剣客役が似合うといった印象が流布していたようだが、体質的には、こういう優柔不断でいじいじした役柄が似合うようだ。

中村鴈次郎が、瀬川の寄宿先の寺の坊主役で出てくるが、これが表向きは高潔で、実像はどすけべだったという分裂した人物像を演じていた。鴈次郎はこういう役を演じさせるとなかなか堂に入った芝居をする。

原作では、丑松が土下座するところがクライマックスになっていたように思うが、この映画では、その後に丑松が人間として目ざめるということになっていて、そちらのほうがむしろ見せ所となっている。これは、原作でもそうだったのか、それとも市川の演出なのか。




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