壺齋散人の 映画探検
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東京流れ者:鈴木清順



鈴木清順は1960年代に活躍した映画作家で、その破天荒と言われる映像は多くの熱狂的なファンを集め、いまでも日本の映画史を飾る名監督と言われている。そんなわけで、映画を論じようとする者には、必見の作家だと言えよう。筆者もそんな問題関心から彼の映画に接した次第だ。

「東京流れ者」は、鈴木の映画作家としての名声を確立した作品ということになっている。それまでの鈴木は、多作なわりに凡庸な作品ばかりで、B級扱いだったのだが、この映画でブレイクし、以後大監督としての道を歩んでいくこととなった。

だが、今この映画を見ると、大した感慨もわかない。テーマが平凡であるし、映画の作り方もあまり冴えているとは言えない。テーマの点からいうと、この映画は、60年代に流行ったヤクザの風来坊路線(たとえば小林明の流れ者シリーズのような)の延長でしかない。この頃の風来坊映画と言うのは、それ以前の股旅ものの現代版で、西部劇風のアレンジを加えた日本版ウェスタンといってよいような代物だった。こうした日本版ウェスタンを、筆者は日本特有の田吾作ウェスタンと呼んでいるが、その理由は、スマートさではなく、泥臭さを売り物にしていることにある。

この「東京流れ者」も、そうした田吾作ウェスタンに属する作品と言ってよい。鈴木清順流の映像処理の卓抜さが、映画の出来を並みの田吾作ウェスタンを飛び抜けさせているが、基本的には田吾作ウェスタンと言ってよい。

渡哲也演じるヤクザのなりそこないは、ヤクザから足を洗っても、ヤクザ社会の仁義を至上のものに思っている。そんなヤクザ社会の仁義を以てしては、堅気の世の中を生きて行くわけにもいかず、従って、堅気になろうとするならヤクザの仁義に見切りをつけ、仁義にこだわるなら気質をやめてヤクザに戻ればいいところを、この男は堅気でありながらヤクザの仁義を通そうとする。そこにこの映画特有のねじれのようなものが生じる。この映画にもし面白さがあるとすれば、それはこのようなねじれの賜物だろう。

結局渡哲也演じるヤクザくずれは、親と頼む男に裏切られることで、ヤクザの仁義を見限るということになる。だがその途端に、この男には一個の人間として生きて行く拠り所がなくなるようなのだ。「東京流れ者」というタイトルが本物の中身を持つようになるのは、ヤクザまがいの人間として流れ歩く渡哲也ではなく、ヤクザとしての生き方を見失った渡達也の途方にくれた生き方を描くことから始まる。

とにかく、不思議でかつ中途半端な映画と言ってよい。




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