壺齋散人の 映画探検
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マンハッタン(Manhattan):ウディ・アレン



ウディ・アレンの映画「マンハッタン(Manhattan)」は、アレンなりのニューヨーク賛歌といったところか。ガーシュウィンの曲に合わせながらニューヨークを賛美する言葉で始まるこの映画は、ニューヨークはセクシーな女と手馴れた男の街であり、白黒が似合う街だと締めくくる。その言葉通り映画はわざわざモノクロームフィルムで作られ、世事に手馴れた男アレンとセクシーな女たちとの恋のやり取りを描いてゆく。筋書きはほとんどないに等しい。男女のさやあてがとめどもなく続いてゆくだけだ。その点では、フィリーニの「甘い生活」やアントニオーニの「愛の不毛三部作」と似た雰囲気を持っている。

ウディ・アレンは放送作家で、十七歳の少女を恋人にしている。彼には二度の離婚暦があって、二度目の妻は子どもを連れて他の女とくっついた(レズビアンだったのだ)。アレンは自分の一人息子がトランスジェンダーになるのを恐れている。また別れた妻が自分たちの結婚生活を本にして出版しようとしているのも気に入らない。笑いものにされるのが我慢できないのだ。

四十二歳のアレンは、自分の子どものような少女と恋人の関係を続けることに罪悪感を抱く。そんな折、友人のエールから、彼のの恋人メリー(ダイアン・キートン)の払い下げを受ける。メリーは熱心なキリスト教徒で、理屈っぽく、最初はうんざりさせられたが、そのうちアレンは彼女に夢中になる。彼女のほうも恋人に捨てられて男日照りの状態に陥り、アレンをとりあえずセックス・パートナーとして受け入れる。だが、そんな二人は結局破綻する。理由はどうやらアレンのほうにあるらしい。セックスが下手らしいのだ。おそらく早漏なのだろう。前の妻と別れた理由も、そこにあるらしいことがほのめかされる。

一方少女のほうはアレンとのセックスに満足している。彼女はまだ経験不足なので、本当のセックスがわかっていないのだ。

アレンは、メリーとの関係が破綻し、少女とも別れざるをえなくなり、前の妻が出版した本のおかげで世間から嘲笑される。その本の中でアレンは、ユダヤ主義者で権威的な偽善者だと罵られたのだ。仕事も失ったアレンは八方塞りの状態に陥った自分を見出し、自分自身を軽蔑するハメに陥る。だがこれがニューヨークのニューヨークらしさなのだ。ニューヨークにはいいところもあれば、残酷なところもある。だから自分の運命は潔く受け入れよう。そうすればまたいいことがやってくるかもしれない。そんな楽天的なメッセージが映画の最後のほうで伝わってくる。

ダイアン・キートンはアレン映画の常連で、この映画のなかでも心憎い演技を見せてくれる。彼女は最初は頭でっかちで食えない女として描かれていたが、そのうちだんだんと女らしさを見せるようになる。アレンに向かって、ダックスフントがペニスの代用品よ、という辺りから、だんだんと好色な本性を見せるようになる。彼女が何故小男で冴えないアレンに引かれたのか、それは彼女に小男マニアの傾向があるためだと紹介される。彼女の前の夫もはげ頭の冴えない小男だったのだ。

アレンが権威主義的なユダヤ人だということは、彼の別れた妻に対する言動から伝わってくる。彼女がレズビアンで道徳から外れた行為をしているといって、鳩やカトリック教徒を見習えとアレンはいうのだ。鳩は夫婦関係に忠実だし、カトリック教徒は結婚を神聖視すると言いたいらしい。だが鳩は多くの水鳥やペンギンなどと違って、雌と雄が一緒に暮すことはないし、カトリック教徒にも浮気するものはある。

アレンもメリーも精神分析を受けている。ニューヨークに暮しているものにとって、精神分析は欠かせない条件だというわけであろう。アレンが一番悩んでいるのは、男女関係が長続きしないことだ(ヒトラーとエヴァの関係ほども長続きしない)。彼なりに長続きする男女関係を望んでいるようなのだ。前の妻に捨てられたのは、性的問題が最大のきっかけだったらしいが、アレンの人格の欠陥にも理由があったらしい。前の妻からすれば、アレンは冷たい人間で、彼の生き方はほとんどキルケゴールの世界だという。心理的・性的障害を抱えながら、かっこつけて生きているというわけだ。

こんなわけでこの映画は、不必要な精神問題を次々に作り出す人々が暮らす街、それがニューヨークだというようなメッセージを残しながら終わるのである。というかそこで中断するのだ。





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