壺齋散人の 映画探検
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姿三四郎:黒澤明



姿三四郎は小説の主人公の名で、架空の人物ではあるが、日本人はこれをあたかも実在の人物のように取り扱ってきた。いまでも小柄で強い柔道選手を〇▽三四郎と呼ぶが、それはモデルとなった三四郎のイメージを投影したもので、大柄な選手には決して三四郎とは言わない。

この三四郎のイメージを日本人に普及させたについては、原作の小説はもとより、黒澤明の映画が大きな働きをした。黒澤は姿三四郎に取材した映画を、正続二本作ったが、どちらも大ヒットした。この映画のおかげで、姿三四郎のイメージが確立したほか、その後の柔道映画にも大きな影響を及ぼし続けた。

正編の「姿三四郎」は、黒澤にとってはデビュー作にあたる。デビュー作と言うのは多かれ少なかれその作家の原点としてその後の作風を先取りしているとよく言われるが、「姿三四郎」の黒澤における位置づけにも同じことが言えるのではないか。黒澤映画の世界の最大の特徴は、男を描くことにあって、女は付随的にしか描かれないことにあるが、その特徴が、すでにこの映画にも色濃く現われている。この映画のテーマはあくまでも男の世界であって、女は香辛料的にさらりと触れられるに過ぎない。

映画のストーリーは他愛ないものだ。強い柔道家を目指す姿三四郎(藤田進)が、柔道の権威矢野正五郎(モデルは加納治五郎:俳優は大河内伝次郎)のもとに弟子入りし、ライバルの柔術家との戦いに次々と勝つというものだ。柔術家には二種類あって、志村喬演じる村井半助は礼儀正しい柔術家、月形龍之介演じる檜垣源之助は悪役イメージだ。三四郎は村井に対しては礼儀正しい柔道をし、桧垣にたいしては悪には力で対抗するといった試合をする。他愛ないと言えば他愛ないが、これが日本の活劇の王道だったわけだ。

三四郎には好きな女ができる。村井半助の娘お澄だ。彼女を前にすると、三四郎の顔はだらしなく緩む。それを藤田進が演じているわけだが、藤田が女の前で照れ笑いをすると、いかにも間抜けな顔に見える。この俳優はマッチョな男を演じるのは得意だが、繊細な役は苦手らしい。

三四郎の思い人たるお澄を轟夕起子が演じているが、この女優も決して美形とは言えない上に演技も器用ではない。そんな彼女と三四郎との間柄は、普通のメロドラマに見られるような美男美女の甘美な恋と言うより、横町の八五郎とお花ちゃんの相思相愛といった風情だ。

黒澤は、男の世界にこだわるあまり、それに女を介在させることについては否定的だったと言えるのだが、そういう傾向が既にこの映画にもあらわれているということなのだろう。

一方で黒澤は、映画の中で教訓的な言葉をさしはさむのを好む傾向があった。「七人の侍」の中で、本当の勝者は我々ではなく百姓だと志村喬に言わせるシーンはその典型的なものだ。この映画の中でも、大河内伝次郎が三四郎に向かって「お前は人間の道を知らぬ」と言い、それについて「人間の道とは天地自然の真理である」とわけの分からぬ言葉を言わせるシーンが出てくる。黒澤にとっては、言葉の意味よりも、それが用いられるコンテクストのほうに意味があると考えていたようである。でなければこんなわけのわからぬ言葉を平気でさしはさむ神経がわからない。

なお、この映画は初演時には90分以上の長さだったが、今日残っているのは79分だけである。再上映時に軍部の検閲で一部が削除され、そのままそれが確定版になってしまったということらしい。




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