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東京の風景の移りかわり:東京物語から東京家族へ



小津安二郎の「東京物語」と山田洋次監督の「東京家族」を比較する視点のひとつとして東京の風景の移り変わりというものがあげられよう。東京物語のほうは昭和28年頃の東京が舞台であるから、その時点の東京の風景を当然映し出している。それを東京家族が映し出した現代の東京と比較すると、いろいろ興味深いことに気づくだろう。

まづ、長男が住む自宅兼診療所のある場所は、東京物語では足立区の千住のはずれ、東武鉄道の牛田の付近となっている。長男の家は、荒川の土手に沿って立っており、窓からは土手が良く見える。が、土手のほかには風景らしいものはあらわれない。唯一千住のお化け煙突が出てくるが、それ以外には何も見えない。それ故東京とは賑やかなところだと思い込んでいた老人夫婦はびっくりしてしまうのである。当時でも、北千住駅周辺は人家が立て込んでいたはずだが、一歩引っ込むとさびしげな原っぱが広がっていたと思われる。

一方、現代の長男の家は多摩地域の住宅街と言うことになっている。山田監督は、東京物語の川の手に対して山の手を舞台に選んだわけである。その山の手の坂道に沿って垢抜けた二階家が立ち並び、家の中は洋風だ。それに対して、千住の家は和風のつくりで、非常に開放的にできている。祖母が孫を連れ出すシーンでは、千住では土手が舞台となり、多摩では近隣公園が舞台になっている。片方は自然そのもの、片方は人工の構築物である。

両作品とも、東京の市街地を映し出している。東京物語では、原節子の案内で老人夫婦がはとバスで東京めぐりをする。昭和28年頃のことであるから、まだ高い建物はない。東京タワーが立つのはこれより5年後の昭和33年のことだ。だから銀座の和光などは東京でも最も高い建物のひとつだったにちがいない。そのわきをはとバスが通り過ぎる。バスの窓から見える和光の建物は今と全く違わない。違うのは周囲の光景だ。

原節子と老父母の一行は国会議事堂付近の建物の屋上に上って、そこから東京の街並を見物する。東京の都心にはまだ、そんなに高い建物は見えない。この頃は、甲州街道沿いの四谷牛込あたりでも馬車が走っていたはずだから、東京はまだ田園的なイメージを残していたはずだ。

東京家族の老夫婦もはとバスに乗せられて東京見物をする。バスは下町を走り、窓からはできて間もないスカイツリーが見える。スカイツリーのすぐ先に、東京物語の舞台となった千住の土手がある。しかしなぜか山田監督は、都心の高層ビルを映し出すことをしなかった。

長女の家は「うらら」という美容店と一体になっている。東京物語では、店の空間と居住空間とはそれこそ一体となっている。内風呂がないので、近所の銭湯に入浴に行くシーンが出てくる。一方東京家族では、店の空間と居住空間とは一応分化している。決して広くはないが、狭いなりに、居住性に配慮していることが読み取れる。

東京物語で原節子が住んでいるのは、一部屋の小さな木賃アパートだ。この小さなアパートの部屋で、原節子と東山千恵子が一緒に寝るのだが、かつてはこの部屋で若い夫婦が暮らしていたのだというのだ。東京家族でも、末っ子は多摩地域の小さな木賃アパートに住んでいるということになっているが、それは独身者の仮住まいとしてだ。ところが東京物語では、子供連れの家族でも一部屋の小さなアパートで暮らしていることになっている。当時の住宅事情の深刻さが伝わってくる。

その貧困な住宅事情に迫られて、老夫婦が厄介ばらいを兼ねて旅館に泊まるシーンが出てくる。東京物語では熱海の和風旅館、東京家族では横浜の超高層ホテルに泊るということになっている。その熱海の旅館と言うのが非常に面白かった。大部屋をいくつか仕切ったような作りで、個々の部屋にプライバシーが保証されていないのだ。かつてはみなこんなものだったのだろうか。

後半で、関西に帰る老夫婦が東京駅の待合室で汽車の出発を待つシーンが出てくる。現在の東京駅には、このような待合室はない。ともあれ、夜の9時に東京駅を出発した汽車は、翌日の昼過ぎに尾道に着くということになっていた。もっとも、その途中の大阪で、老母が病に倒れてしまうのであるが。

こんなわけで、画面を気を付けて見ていると、この60年の間の東京の風景の移り変わりが非常に良く見えてくる。特に、小津が東京を映しだしたシーンには、資料的な価値を認めることもできよう。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013
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