壺齋散人の 映画探検
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我らが愛にゆれる時:王小帥



王小帥の2008年の映画「我らが愛にゆれる時(左右)」は、現代中国人の家族関係を描いたものだ。家族関係といっても色々な側面があるが、この映画が描いているのは親子の関係である。難病にかかった子どもを救うために、母親がある決断をするのだが、それがあまりにも常軌を逸しているように見えるので、よほど開明的な人物でも深い違和感を感じざるをえない。

その決断とは次のようなものだ。子どもは血液のガンというから、おそらく白血病にかかったのだろう。色々治療を受けたがうまくゆかず、抜本的な治療は骨髄移植しかないと医師に言われる。ところが適合する骨髄がない。両親でさえも適合しないのだ。しかしその子にとって同じ両親から生まれた子なら、適合する可能性が高い。そう言われた母親は、すでに離婚して自分の家庭をもっているかつての夫に、自分たちの子を作りたいと持ち掛けるのだ。

その母親には夫がいるのだし、別れたかつての夫にも妻がいる。そういう人たちの気持を踏みにじってでも、母親は自分の子どもの命を救うために、かつての夫の子を産みたいと言い続ける。その態度があまりにも決然としているので、周囲の者はみな圧倒される。その挙句、母親はかつての夫とセックスし、妊娠することに成功するようなのだ。女にとっては、自分が妊娠した瞬間はだいたいわかると言われる。映画の中の女は、性交後強く満足した表情を見せるので、たぶん妊娠に成功したのであろう。

そういうところを見せられると、小生のような道徳に敏感な者には、この母親の行動はあまりにも身勝手に映る。子どもの命と、女の貞操を比較することに意味はないかもしれないが、この女に貞操観念というものがないのは明らかだ。中国の女は、打算から自分を売ることがよくあると言われるが、それは貞操観念を中国の女が馬鹿にしているからだと、聞いたことがある。この映画の中の女が、貞操観念を馬鹿にしているかどうかは、よくはわからないが、少なくとも、子どもの命を救うためなら、問題のあるセックスをするのをためらわない、ということは伝わって来る。

一方、女の現在の夫や過去の夫は、女の言い分に振り回されるばかりで、少しも主体性を感じさせない。現在の夫は、妻の意図に対して疑問を投げつけないばかりか、別れてもいいと言われても何も言わない。かえって、生まれてきた子どもを自分たち二人の子どもということにして、一緒に育てようと言う。その一方で、三人目は生まないと言われる。つまり、他人の子は産んでもあなたの子は産まないと言われて、なにも言えないのである。それはこの夫が、妻に依存していることから来ているのだろうと、思わせられるところである。

一方、別れた夫の方は、最初は体外受精というかたちで協力し、したがって身を重ねることなく、女の希望をかなえてやれば、少しは体裁つくかと考えていたようだが、そのうち、体外受精ではだめだといわれ、性交を迫れられると、あっさりと応じる。それを今の妻は許すのだ。

こんな具合で、実に訳の分からぬ映画である。日本では、こういう映画はあり得ないのではないか。小生は、貞操観念のない女と、甲斐性のない男から成り立っている国の未来は危ないと思うのだが、如何だろうか。もっともこの映画は、ベルリンで高い評価を受けたそうだから、ヨーロッパ人種には奇異には思われなかったようだ。




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