壺齋散人の 映画探検
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ジャック・フェデーの映画「外人部隊」:トランプが占う運命劇



ジャック・フェデー(Jacques Feyder)は、フランス映画の黄金時代を築いた巨匠の一人であるが、フランス人ではない。ベルギーに生まれてフランスに帰化した人物で、フランス映画と称される作品は、実質的には三本しか作っていない。しかし、そのわずか三本の映画が、その後のフランス映画に決定的な影響を与えたのであった。その影響は、多くの映画評論家によって、肯定的に評価されたが、中には否定的な評価をする者もある。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手といわれたフランソワ・トリュフォーはその最たるもので、フェデーの映画は、「心理的リアリズム」というけちな傾向のために、フランス映画をつまらなくした元凶だといった。

たしかに、フランス映画には、ルネ・クレールやジャン・ルノワールのような、祝祭的雰囲気に富んだ非リアリズム的な流れと、フェデーやジュリアン・デュヴィヴィエのようなリアリスティックな流れがある。どちらが優れているかは、一概にはいえないが、フェデーがフランスリアリズムに大きな影響を与えたということは、歴史的事実として言えそうである。

「外人部隊(Le grand jeu)」は、フェデーの三本のフランス映画のうちの最初の一本である。フェデーはこれを、1933年に作ったが、その少し前(1930年)に、ジョゼフ・フォン・スタンバーグが、ゲーリー・クーパーとマレーデ・ディートリッヒを起用して、外人部隊をテーマにした映画「モロッコ」を作っていた。そんなわけで、この二つの映画は、色々な点で比較される。

「モロッコ」は、ゲーリー・クーパー扮する女たらしの兵士が、マレーネ・ディートリッヒ演じる酒場の歌手と恋に陥る話で、最後は二人が永遠の絆で結ばれるところで終わる。「外人部隊」もやはり、兵士と酒場の女との恋の物語だが、その恋には非常に複雑な事情が絡んでいる。また、「モロッコ」のように、ある意味ハッピーエンドで終わるわけではなく、観客に不条理な思いをさせるような終わり方をする。単純な恋愛映画である「モロッコ」に比較して、筋書きも複雑であるし、恋をめぐる男女の心理的葛藤も複雑なのである。

ピエール・リシャール・ウィルム(Pierre Richard Willm)扮する男が、破産で親族に迷惑をかけた罰として、モロッコの外人部隊に入隊させられる。男にはマリー・ベル(Marie Bell)扮する恋人がいたが、マリーの方は、落ちぶれた男を捨ててしまう。傷心した男は、外人部隊でやけになる。そんな男を、酒場のおかみフランソワーズ・ロゼー(Françoise Rosay)が何かと慰める。彼女は、トランプ占いが得意で、男の運命も占ってやる。近く新しい恋をするが、それは長続きしない。また、茶色の髪の男を殺すであろう。自分自身も死ぬかもしれない。それは、トランプ占いで、スぺードのナインとクラブのナインが隣り合ったときだ、というのである。

男は占いどおり、一人の女と恋に落ちる。この女は、外人部隊相手の酒場にやってきた歌手で、自分を捨てた恋人にうりふたつといってよいほど似ているのだ。映画の中では、マリー・ベルが、もとの恋人との二役を演じている。その演じ方が憎い。前の恋人の方は、声が高く仕草が派手なのにたいして、歌手の女のほうは、低い声で落ち着いた雰囲気を漂わせているのだ。

この酒場の女を巡ってトラブルがあり、男は占いのとおりに酒場の亭主を殺してしまう。ところが、おかみが男をかばって助けてくれる。そのうち、男には運が巡ってくる。親族から多額の遺産を相続したのだ。そこで男は、外人部隊の契約期間が満了したのを引き潮にして、マリー・ベルと共にフランスで暮らそうと思う。そして、マリセーユ行の船の切符まで用意したところ、偶然昔の恋人と再会する。その女は、アラブ人の金持ちと共に、モロッコまでやってきたのだった。

こうなると、男の情熱は、再びこの女に注がれることとなり、新しい恋人のことは頭から消え去ってしまう。結局男は、前の恋人とよりを戻すことはなく、かといって新しい恋人と生きていく気持ちにもなれず、そのまま外人部隊での生活を続けることを決意する。

そんな男の様子を、フランソワーズ・ロゼーがじっと見守っている。彼女はどうやら、この男を愛してしまったようなのだ。男が、新しい任務を帯びて出発するに際して、フランソワーズ・ロゼーは、男の運命を占ってやる。すると、スペードのナインとクラブのナインが隣り合って並ぶ。それを見たロゼーはびっくり仰天して、男に気取られないように努めるが、男は自分の運命を悟ってしまうのである。

こうして、死の運命を受け止めた男が、戦場に向かって出発するところで、映画は終わる。

こんな筋書からも、この映画が実に巧妙な仕掛けを内在させていることがわかろう。映画の登場人物はみな、その仕掛けに乗って行動している。それは、あたかもギリシャの運命劇を見るような感をさせる。どんな行為、どんな言葉にも、かくされた必然性が働いている。だから、登場人物たちは、運命の意図を実現する媒体にすぎない。それでいて、彼らは彼らなりに、つねに心理的な葛藤に直面しているように描かれている。壮大な運命が個人を巻き込むと、そこには心理的な葛藤が生まれるというわけである。

こんなわけで、この映画は、単なる心理的リアリズムを超えて、運命劇のような色彩をも感じさせる。重層的な構造を内在させているわけだ。そのあたりが、この映画を一流の作品に仕立て上げているところなのだろう。トリュフォーのように、わざとらしい「心理的リアリズム」として切り捨てるには、勿体ない作品だといえよう。



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