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フランス映画「アデル、ブルーは熱い色」:女性同士の同性愛



アブデラティフ・ケンシュによる2013年のフランス映画「アデル、ブルーは熱い色(La vie d'Adele)」は、女性同士の同性愛を描いた作品。16歳の女子高校生が美大の四年生という年上の女性に惹かれ、やがて性的な関係に発展していくところを描く。映画の見どころは、そんな二人の性的な結合を映し出すシーンだ。男女のセックスシーンを映した映画は珍しくないが、女性同士の性的な結合を描いたものは、まじめな映画としては非常に珍しかったので、公開当時は大変な反響を呼んだ。いってみれば、人類がまだそこまで解放されていなかったということだろう。

この映画は、レズビアン同士の結びつきの後に、二人の決裂が描かれる。その理由は、年下のアデルがほかの男とセックスをし、それを年上のエマが不潔だと思ったことだ。フランス女の性的な奔放さは世界の最先端をいくものと思われており、またフランス人自身もそれを自任しているフシがあるが、こと同性愛に限っては、貞淑さが求められる、というふうにこの映画からは伝わってくる。そこがどうもややこしい。同性愛だけに性的な貞淑さを求めるのは、欺瞞的ではないのか。

愛する人に捨てられたアデルの喪失感は、わかるような気がする。喪失感というか、自分が空虚になったと感じるのは、幼児時代の体験に根ざしているのだと思う。幼児の頃に親から見放されたというような体験は誰もがもっているものだ。その時の絶望的な喪失感が、成長した後でも繰り返されることがある。それをもたらすのは、愛する人から見放されたという感覚だと思うのだが、その愛する人には、異性とか同性とかの区別は関係ないといえるのではないか。要するに愛を通じて固着している相手から一方的に拒絶されることから、絶望的な喪失感が生じるのだと思う。

捨てられて深刻な喪失感をいだいたアデルは、なんとかしてもう一度相手に認めてもらいたいと思う。彼女は、エマにむかって、自己をむき出しにさらしながら懇願するのだ。一人でさびしい、あなたが欲しい、あなたがこいしい、といって。彼女は大粒の涙を流しながらそれらの言葉をくり返し、懇願するのであるが、受け入れてもらえない。それでも彼女は生き続けなければならないと感じる。だが、この先、絶望を抱えながら、どうやって生きたらいいのか。彼女にはわからないのである。

そんなわけでこの映画は、女史の同性愛を通じて、人間がほかの人間を求めるとはどういうことか、その根源的な意味を考えさせる作品である。

なお、アブデラティフ・ケンシュはチュニジア出身で、フランスを拠点にして映画を作っているそうだ。アデルを演じたアデル・エグザルホプロスは、この映画に出た時は20歳だったが、16歳の少女から成熟した女性まで、ごく自然に見えるように演じている。




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